第18話 拍子木
宮城県と岩手県の県境 N峠付近山中
ある初夏の晴天の日。
宮城県T市に住むAさんは山菜採りに出掛け、知人に教えてもらったという山の幸が豊富に取れる穴場の山へと向かった。
そこは宮城と岩手の県境に位置する山中にあるのだと教わった。
県境をまたぐようにN峠があり、曲がりくねった急勾配の峠付近から脇道へと入って山道を進む、解りづらいゆえに地元の人にもあまり知られていない場所なのだという。
知人が言うにはその峠付近の山道は昔、山を隔てた山村や集落をつなぐものであったらしく、現在は林業の人が時々、ほんのたまに山へと入るのみ。それも入り口付近だけで奥へは行かず、ほとんど人も来ないし今は通られてもいない道らしい。
なので初夏には山菜、秋にはキノコが山ほど大量に豊富に採れる。
そう聞いた山菜好きなAさんは山へ赴くと峠付近の脇道へ車を突っ込んで停車させ、整備も手入れもされず、もはや獣道のような山道を歩いて山中へと入っていった。
その時、血の匂いがしたという。
だがAさんは山菜の事で気が高ぶっていた。鹿も狐も狸も沢山出る地域だし、野生動物の死骸でも近くに転がってるのだろうと考えて気にも止めなかった。
小さな沢の涼やかな流れの音を聞きながら雑木林の木陰の中を、シダ類が生い茂る廃れた山道を登る。
少し休んで周りを見渡すと思っていた以上に結構な斜面であり、晴れて遠くの山々がよく見えた。
一本道で迷いはしないだろうけど念のために通った印として、側の樹木に小さなナイフで切り込みを入れつつ進んでいった。
知人の言う通りだった。ワラビやゼンマイが豊富に見つかり、無我夢中で背負ってきたカゴの中へ放り込んで採取した。ふと、遠くのほうでカーンと木を打ち付ける音が響いた。
Aさんは山菜を採りながら、林業の人が山に入って作業を始めたのかなと思ったという。
再び遠くで木を打ち付ける音が響く。それは一定の間隔で聞こえてくる。山菜を採る手を休め、立ち上がって周りを見回した。カーン、とまた別の違う方角から聞こえた。
それは拍子木(ひょうしぎ)を鳴らす音のように聞こえた。再び遠くでカーン、と打ち付ける音が響く。その拍子木の音はまるで取り囲むように鳴り響き、だんだんと近づいてくる。
Aさんはその音を不穏に感じ、不意に不安と焦りと恐怖が沸き上がり、その場をすぐさま逃げようとした。だが山菜の入ったカゴを担ごうとしゃがんだ瞬間、金縛りになり動けなくなったという。山道の下の方から拍子木の音が登って迫ってくる。音と共に何か気配がにじり寄って来るのを感じた。
それは一人ではなく、どうやら集団の気配だった。
Aさんは顔に脂汗をかきながら身動きも取れず何もできない。背中の後ろでカーン、と拍子木が鳴る。周りを気配に取り囲まれている。その気配はどんよりと重たく、囲まれてじっと凝視されているようで、たまらなく嫌に感じたという。
かすれた息づかいまでもすぐ傍で聞こえる。視界の端に足のようなものが見えた。五、六人の足。
それは白く、木の枝のようなしわにまみれ、ぼろぼろの草履を履く者もあれば裸足の者もあった。
そしてすべて血まみれだった。
カーン、カーン、と音がAさんの周りを廻る。その拍子木の音が山道を上がるように聞こえ始めると集団の気配は離れていった。同時に金縛りが解けて身体に自由が戻った。
Aさんはゆっくりと身体を上げると物凄い違和感を感じた。目に入る景色が違っている。木々の枝葉が色褪せて見える。視界がおかしい事に気づいた。周囲の景色がすべてセピア色に見える。さっきまでとは違う、暗褐色の森の中にいる。
遠くで拍子木の音が響いた。音の方角、山道の上の方を見上げると集団が見えた。のろのろと山道を登っていく。ずたぼろの着物を着た集団。異様な姿をしていた。
首が無い者、首がねじ曲がっている者、腕が肩からちぎれ垂れ下がっている者、頭がざっくりと割れている者、半身が砕けている者、黒い靄のような者。
Aさんはとっさにカゴをつかみ逃げるように山道を降った。
暗褐色の視界の中を闇雲に走った。かなり降りてきたと思った。だが車は見えない。息を整えつつ辺りを確認した。側の樹木にナイフで刻んだ印が目に入った。Aさんが登ってくる途中に目印として刻んだ印。入り口の車の場所まで近づいてはいる。走って山道を再び降り始めた。どこまで降りたのか解らなくなった。足を止めて周囲を見回した。樹木に印が見える。おかしいとAさんは思った。さっきと同じ場所。山道をぐるぐると廻っているのではないか…そう気づいた瞬間だった。
後ろのほうでカーン、と拍子木が鳴り響いた。振り向くとあの集団が山道を降りてくるのが見える。Aさんはカゴの山菜をぶちまけながら闇雲に走って逃げた。背後で拍子木が鳴っている。辺りはいつの間にか薄暗くなっていた。
よろけながら車の元へ戻ったAさんは一目散に峠を降りて逃げ帰った。
これは信じなくてもいいけどと言い、Aさんが話してくれたのは時間の事だった。
彼がその日、山道へと足を踏み入れたのは午前10時頃。遅くとも昼過ぎには家へ帰るつもりだった。だが車に戻れた時は夜の7時をとうに過ぎていたらしい。
山を降りると視界の色彩はいつの間にか元に戻っていたという。
昔、その峠付近で何があったのかは解らない。山賊が住み着いていたのかも知れないし、もしかしたら秘匿された口減らしの姥捨山があったのかも知れない。
しかし郷土史などの文献にはそのような記述は無く、言い伝えも聞いたことはない。
Aさんはそれ以来、山菜採りは辞めて山菜も食べなくなったという。
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