第25話 北の殉教地
岩手県一関市藤沢町大籠 大籠キリシタン殉教公園
宮城県登米市 三経塚
その地にまつわる悲しい歴史と、未だ召されず魂が彷徨う隠れ里が存在する。
岩手県と宮城県の両県にまたがる大籠地区、宮城県の米川地区は日本有数の隠れキリシタンの里として知られる。
その昔、大籠地区では千葉土佐(初代)という豪族達がこの土地で採取される砂鉄を原料に「タタラ製法」で鉄を生産しており、そのため周辺には製鉄所である炯屋(どうや)が数多く存在した。
しかし伸びぬ生産量を増やすため、永禄元年(1558年)、備中国(岡山県西部)より製鉄職人の千松大八郎・小八郎の兄弟を呼び寄せる。
この兄弟が信仰に厚いキリスト教徒であったため、この地でも布教を開始した。
製鉄の炯屋が数を増すと共にキリスト教も広まり、キリシタンの信徒が増えていった。
伝承によれば、最盛期の信徒の数は3万人にも上ったと言われている。(ただこの数値は現実的ではないとされる)
しかし慶長17年(1612年)、江戸幕府から禁教令が出されるとキリスト教の本格的な弾圧が始まる。
1637年(寛永14年)、キリシタン農民による一揆が起こり、島原の乱が勃発。
抑制のために残虐な仕打ちが加速し、常態化していく。
元和の大殉教においては全国各地でキリシタンの処刑がおこなわれた。
そういった迫害から北へと逃れてきた各地のキリシタン達も集い、ここに隠れ里が出来上がった。
しかし密告によりそれが発覚する事になる。
大籠村で神父を匿っているとの密告によって、フランシスコ・バラヤス(日本名=孫右衛門)神父は捕縛され、江戸に送られて火炙りの刑に処された。
それを皮切りにこの地で大処刑が行われる事になる。
寛永16年(1639年)から始まった大籠地区での処刑において、300余人が殉教した。
309人とも伝えられている。
伊達藩領内の弾圧は徹底的であり、苛烈な拷問は凄惨を極めたという 。
代表的な隠れキリシタンの地である島原や天草と一線を画すのは、この地域に点在する圧倒的な数の処刑場跡である。
地区内だけで刑場跡は十数箇所も存在し、その一つ一つに供養のための地蔵が建てられている 。だが処刑場の地蔵の首は何度直したり付け替えても、ぼろりと落ちてしまう。
それが繰り返し起こるものだからついには諦められ、首がないまま放置された地蔵も多い。
見せしめのためなのか、刑場跡はほとんど道沿いに存在する。
のどかな田舎の風景の傍ら、今でも処刑にまつわる跡が見えるその光景は、ある種の異界に迷い込んだような異様さを醸し出している。
道沿いにぽつんぽつんと立つ説明文が記された簡素な立て看板も、この地で次々と壮絶な刑で亡くなっていった人々達の名残を今も生々しく残している。
1、「地蔵の辻」
最も多くの殉教者を出した場所。
別名、無情の辻。
打ち首、十字架へ打ち付けられる磔刑にて178名が処刑された。
そばに流れている二俣川は178名の殉教者の血で染まったという。
立て札には「鮮血が刑場下の二股川を血に染めた無残なこと筆紙に尽き難きもの」と記されている。
2、「首実検石」
地蔵の辻から県道を挟み、すぐ側にある。
伊達藩の役人が石に腰を掛け、処刑の検視をここから見ていたと伝えられる。
3、「上野処刑場」
通称「オシャナギ様」と呼ばれ、幼子を抱いた聖母マリア像にも見える事から、幼い子供まで供養したのではないかといわれている。
ここでは94名が処刑された。
オシャナギ様の側には十字架と地蔵があるが、地蔵には首が無い。
4、「祭畑刑場」
上野刑場から西へ200mの場所。
上野刑場での処刑を逃れて脱走した者を捕え、狙い撃って銃殺した現場といわれている。
5、「保登子首塚」
小高い丘の上にある。
当時600人ほどいた住民全てがキリシタンになったという大籠地区で、キリストを拒むことなく殉教された信徒の首が埋葬された地。
供養碑が普通の墓石とは反対の北向きに3基建てられている。
6、「トキゾー沢処刑場」
集落入り口付近。
トは「徒」、キは「刑」、ゾーは「場」の意で徒刑場を現す。
12名が処刑された。
当時、殉教者の亡霊に悩まされた遺族は、極楽浄土への冥福を祈り石碑を建てた。
周辺には小さな石碑がそこかしこに沢山建てられている。
7、「架場首塚」
斬首後の生首を晒して埋めたとされる。
別名ハシバ首塚。
処刑場の首を架掛(はせが)けにして街道沿いに晒し首にした場所。
その側に穴を掘り、斬首の理由書とともに首を埋めたという。
処刑されたご遺体の首と胴体は別々の場所に離された。
同じ場所に埋葬するとキリスト教の妖術でつながり、再び甦るという迷信が恐れられていたという。
8、「元禄の碑」
処刑場に晒されていたご遺体を約60年後の元禄年間に埋葬した場所。
処刑後、夜な夜な男女の泣き叫ぶ声が聞こえ、殺気の迫るものもあり、里を離れる者もあったと立て看板には説明されている。
処刑されたご遺体の供養はそれまで禁じられていた。
元禄16年(1703年)、60年を経てようやく供養碑の建立が許される。
上野刑場、祭畑刑場で処刑された殉教者の遺骨を集め、「南無阿弥陀仏」と刻んで慰霊された。
キリスト教徒、キリシタンの慰霊に「南無阿弥陀仏」と、当時の禁教下においては仕方がないとしても、なんとも言い難い皮肉な弔い方がされている。
9、「上の袖首塚」
地蔵の辻に晒された首を遺族親族が取り戻して、この地に埋めたという。
〈案内板の説明文より〉
残された家族は必死に身内の行方を探しました。
処刑の夜、役人が寝静まったのを見計らい、地蔵の辻で処刑された身内をさがし、そして身内の首を着物の袖に隠し持ち逃げた。
しかし血が滴るのを恐れ家まで持ち帰ることは出来なかった。
そしてここの山中に埋めたと言い伝わる場所です。
10、「大柄沢キリシタン洞窟」
別名、キリシタン洞窟。
昭和48年に発見された隠れ礼拝所である。
位置としては宮城県の区分。
〈史跡説明文より〉
元和6年(1620)、仙台で弾圧があってから、フランシスコ・バラヤス(日本名=孫右衛門)神父の教えにより、洞窟等を造り、信仰を続けていた。
この大柄沢キリシタン洞窟もその一つであり、バラヤス孫右エ門神父の時に、この地方の信者のミサをあげるために造られた洞窟と思われる。
寛永16年(1639)バラヤス孫右エ門神父は仙台で捕えられ、江戸で処刑されてからは、この洞窟もミサは行われず、その後信者の移動と共に、あき洞窟となり、350年間人に知られず、今日に至っている。
11、「台転場」
狭い道沿いに柵を張り巡らし、木戸で仕切り、人1人が通れる通路の中で通行人に踏み絵をさせた。
そこで捕えられたキリシタンは即座に処刑場へと連行された。
〈案内文より〉
吉利支丹弾圧の祭、信徒の可否を決するため烔屋に働く品源は勿論の事、此処を通行する者を検問する場所とした此処は部落の狭窄部であり此処の外、通る道も無い要害の地であり此処に柵を造り木戸により一人一人を通し踏絵に依って県もし吉利支丹信徒の可否を決定した処で、この踏絵を踏まない者は地蔵の辻で処刑されたのであった。当時毎晩亡霊が現れ地方民を悩ましたので後に南無阿弥陀仏の供養碑がたてられたので、その後地方民の苦しみはなかった。
12、山神(十二神)
〈案内板より〉
千松兄弟が郷里より持参したデウス仏(天主)の像を祀った。
切支丹の禁令がでるや、12の神と称し祀った。
後に山ノ神と合祀して山神と称する。
鬱蒼とした山中に存在する山の神(十二神)の祠。
千松兄弟が持参したデウス仏の像を祀った祈りの場だという。
禁教以降、十二の神と称して祀っていた。
十二はキリストの12使徒が由来との説がある。
その後、十二神でも危うくなり、山の神と合祀して山神となる。
デウス仏像は禁教により土中に埋められた。
現在も御神体がない神社である。
13、大善神
通称、流行神(はやりかみ)と称し、大善神(キリスト)を祀った。
千松兄弟が烔屋(どうや)職人達に布教した場とされる。
14、千松大八郎の墓
昭和3年、故東北大学村岡典嗣教授の調査により、大八郎の墓と認められ、碑文が建立された。
周辺一帯はキリシタンの墓地なのだという。
これらの刑場跡地の全域で、毎夜のように男女の泣き叫ぶ声や悲鳴が聞こえ、亡霊が彷徨い出てきて、住民は恐れおののき、夜は家に籠り出歩けず、一睡もできないような有様だったといわれている。
その80年後。120名が殉教する。
悲劇は大籠地区だけでは留まらなかった。
大籠地区から程近い狼河原村(現在の宮城県登米市米川地区)。その森の中でも凄惨な処刑が行われたのである。
1952年、この弾圧の史実は米川地区の旧家で発見された古文書から判明した。
この処刑も密告によるものだったといわれている。
15、海無沢三経塚
享保年間(1720年頃)に切捨場霊場で処刑された120人のキリシタン殉教者の亡骸を3ヶ所に分け、40人ずつ埋葬された。
その際に経文とともに埋めたので三経塚と呼ばれている。
三経塚は、海無沢(かいなしざわ)、老の沢(おいのさわ)、朴の沢(ほうのさわ)の3ヶ所。
塚には松を植えたと伝えられている。
海無沢以外は原型をとどめておらず、現地に詳しい方の案内なしには訪れることができなくなっている。
海無沢三経塚は、川石を積んだ直径6メートルの塚の上に十字架が立っている。
16、切捨場霊場
この地はキリシタン信徒の大量の血潮を吸ったとされる。
列を組まされたキリシタン教徒は、面前で信徒が十字架に釘で打ち付けられ、無惨な拷問の末に命を落とす姿を後ろから見せられたという。
だが誰一人として転宗する事はなく、散っていったといわれている。
海無沢三経塚へと登る山の中腹において、隠れキリシタン120名が磔刑・打首に処された。
ここから下へ降った場所にある桐木馬屋敷の人が密かに供養していたが、昭和57年、他所へ移住する際、近隣の近親者に初めて事実が明かされ、世に知られるようになる。
17、桐木場屋敷(きりのきばやしき)
案内板には桐木場(切捨場)と当てられている。
桐木場屋敷を解体した際、宣教師や神父を匿ったのではないかと考えられる隠し部屋が見つかった。
現在、屋敷跡は公民館と公園になり、毎年6月には殉教祭とミサが行われ、その日は全国各地から人が集まる場所になっている。
18、ロザリオ坂
昭和28年。
この殉教の地を訪れた司教が、帰り道にこの坂を降りて麓までたどり着いた時、塚の老松にかけたロザリオをそのままにして忘れたことに気づき、引き返して探したのだがロザリオは見つからなかった。
その行方は謎につつまれている。
殉教者の霊がロザリオをかの地に持ち去ったと、当時の人々は噂をしたという。
中学時代の頃、大籠地区に住んでいた先輩から聞いた話。
「部活で帰りが遅くなって、暗い道を帰っていると火の玉や人の生首にしょっちゅう追いかけられたし、夜中には呻き声や悲鳴がそこかしこで聞こえていた。それが普通だと思っていた。」
そう話していたのを思い出す。
非業の歴史を刻んだ現地では、現代においてもその土地に染み着いた空気を感じる事がある。
時が止まったかのような、異界としか現す事ができない雰囲気は、この土地の空気に触れてみなければ解らない。
怪奇スポットとしては岩手県内の、あの有名な慰霊の森を遥かに凌ぐと言う人もいる。
そこは秘匿されてきた隠れ里である。
現在、大籠地区にはキリスト教会が建てられ、静謐なキリシタン殉教公園がある。
その殉教公園に向かう階段の数は309段。
この地で殉教された人々の数を現している。
凄絶な地獄の苦しみを受け、命を落としていった魂の怨念が少しでも安らかに昇天されるのを願う。
もしこの地を知り、もしこの場所に訪れた時は、彷徨える魂の苦しみが和らぎ浄化されますよう、安寧と追悼のお祈りを捧げていただければと思います。
幽霊はこの世にいないと思う。
ただ私達がその霊魂のいる時空にたまたま触れ、時にアクセスしてしまうのだろう。逆もまたしかり。あちら側から来訪してきて侵食する時もあるだろう。
霊魂の時間は命を失ったその時のままで止まっている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます