第3候 泉、かすかに柔らかに

1月10日 晴れときどき天気雨


三ヶ日さんがにちどころか、七日なのか正月もゲームをして終わった。他人が社会で生きるなか、僕は遊んで食べて寝ての繰り返し。年末にバイト三昧したおかげで、今月は問題なく生きられそうだけど、来月以降のことを考えるとちょっと憂鬱。いや、だいぶ憂鬱。


良かったこと:天気雨の綺麗な写真が撮れた

頑張ったこと:レンズの手入れできた

悪かったこと:望遠レンズが欲しくなったからバイト探しをしないと…



・・・



ちょっと前のじぶんだったら気の向くまま、旅ばかりしていた。とはいえ遠くに行けるほどの資金はなく、夜行バスや鈍行に乗っていける範囲くらいだ。体力があれば原付を引っ張り出してきて田園風景を走る。キャンプというほどでもないけれど山のなかで食べるコンビニ飯もオツだった。そろそろ、また旅をしたい。


けれども、冬はだめだ。身を斬るような寒さの前に人は為す術を持たない。それに、どんどん軽くなる財布の中身のことも、いい加減無視できなくなってきた。


「金…ないなあ…」



昨年の11月のこと。


バイト先のブラック具合がほとほと嫌になり、退職を申し出た。ところが「繁忙期の年末年始、いやせめて年末までは…なんとか頼むよ」そういって縋り付いてきた店長を無碍むげに断れず、仕方なしに頭を空っぽにして働き詰めた。


どうせここで僕が辞めたら、べつのバイトの子がこの尻拭いをさせられるのだと思うと、妙な情が生まれてしまったのだ。たかがバイトのはずなのに。意味もなく背負う責任ではないはずなのに。


それでも、恩を売ることには成功した。


最悪、給料を支払われない可能性すら容易に考えられるような店長だった。ここで素直に彼の要求に応えることで、ほかのバイトの子が煮湯を飲まされることもなく、僕は労働の対価として、せいぜい1ヶ月くらいは生きていけるだけのお金を手に入れることができた。比較的平和な解決策といえるだろう。


雇用時間に対してあまりに低い賃金も、どうやら無かったことにされたらしい有給休暇にも、いまは目を瞑ろう。声を上げることもめんどくさい。できたら次はもう少しホワイトなバイト先とめぐりあえるようにと、神にでも祈っておくしかない。


「もう次の仕事は決めてるの?」

「うーん…居酒屋系はまっぴらかな」

「客のセクハラ酷かったんだってね」

「男なのか女なのかってしつこいんだ。どうせ二度と会わない酔っ払いに、僕の性別を教えてやる義理もないだろ。ピアスも髪型も縛りがないバイトだから入ったのに、客に見た目を品定めされるとか…気持ち悪い」

「千歳はそのまんまが綺麗でかっこいいのになあ。どうせビールと日本酒の違いもわからないくらいのひとなんでしょ、性格も舌も悪いにちがいないよ」

「いや、流石にそれは……わかるとおもう」

「そう?そっかあ」



少し笑って、ほんの少しの沈黙。

僕が啜っていたマグを見て桃葉が口を開く。



「ねえ、喫茶店はもうやらないの?」

「喫茶店か…」

「好きって言ってたじゃん」

「そうだね。仕事としてはすごく好きかも。本店はすごく働きやすかった。社員の結束力が高いし、主婦さんもいいひとたちだった。僕のこともよくわからないなりに、そのうえで一緒に働かせてくれていた。偏見もなにもなく、対等な立場として僕自身を受け入れてくれてたからね」


地元を離れてしまったから、あれきりあの店には行けずじまいだ。


「また、あんな人たちがいればいいなと思うけど、期待値が上がっているせいかな。それがすごく難しいことに思えて、ハズレを引くのが多分怖くて。なんとなく踏み出せないでいる感じがする」

「大好きだったんだねえ」

「…うん、好きだった。楽しかった。フードもコーヒーも美味しいし、常連のお婆さんたちも、みんな優しかった。もうあそこには戻れないことだけが残念だな」



好きな仕事ができる職場と、好きだとおもえる職場は違う。それは、いくつかのバイトを経て、気づいたことだった。両立できればそれほど素晴らしいことはない。ただしその実現はとても難しい。あの頃の日々と職場は大切な宝物だ。



「ちかくに新しい店舗ができるって知ってるよね?」

「…うん」

「そこは、応募してみないの?」


時給1000円。昇給あり。週3日短時間からOKで、服装規定はなく、賄いあり。早朝出勤あり。残業はすこしあり。転勤は多分なし。言われなくたって条件はとっくに目を通してあった。


「さあね、決めてない」

「そんなこと言って、下調べばっちりのくせに〜」

「…言ったでしょ。まだ決められない、それだけだよ」



千歳がそうやっていうときは、だいたいもう内心決まってるんだよね、なんてことを桃葉は絶対に思っているだろうけど、いまは言わないでいてくれた。


ときに、迷わせてくれたほうがありがたいことだってある。


窓から外を眺めると、遠くに柔らかい水色と青色が混じり合う煉瓦屋根がみえる。もう少し経ったら、懐かしいあの看板が、あそこに掲げられるのだろう。


青い鱗を眺めながら、再び珈琲を啜る。


スーパーで買った味気ない激安珈琲に、店内で挽いた豆の香りが脳内で補完され、すこしずつリンクしていく。歯車が動きだしてしまえば、取り返しのつかないこともあるだろう。いまは過去の余韻をもう少しだけ楽しんでいたい。


証明写真、まだ残ってたっけ…そんなことを考えてしまうのは小さな期待を捨てきれない証だった。


流れ出す雪解け水が如く、

心が柔くほぐれていく。

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