啓蟄

第14候 巣篭もる虫が、顔をだす

3月5日 曇ときどき雨


雇用通知書をもらった。部屋が散らかってきているから明日は早く起きて掃除したい。


頑張ったこと:バイトに行ったこと

良かったこと:紅茶が美味しかった



・・・



ここ数日、陰気な雨が降り続いている。春先の雨だろうか。時間にも心にも余裕が無いままだったが、バイトの時間が迫っている。逃げるわけにはいかないとようやく身体を起こして家を出た。


雲の切れ間を狙ったのに、店まであと3分というところで雨に降られてしまった。店の軒先に入り込み、そこで顔をぬぐった。


空が白々しく「私も悲しい」とでも言いたげな雨を降らしているのを睨みつけながら水滴を払っていると、背後でカランコロンと音が鳴り、店内から誰かが出てきた。挨拶しようと振り向いて、固まってしまった。


「おはよ、海宝かいほうちゃん」

「あっ……」


オーナーでも、バイトの子でもなかった。

忘れるはずもない顔だった。


「先輩……」



2号店で働いていた時、いちから仕事を教えてくれた社員の人だ。勤務時間が被ることが多く、世間話せけんばなしがてら相談役になってくれることも多かった。男勝りで媚びない性格、理解の及ばないことはわからないとはっきり言う清々しさが好きだった。


そんなつもりは無かったのに我慢できずに思わず涙がこぼれてしまった。先輩には笑われ、オーナーはタオルを沢山持ってきてくれたし、バイトの子達はオロオロしながらも背中や手をさすってくれた。




正式にオープンの日が決まり稼働に向けて動いている中の研修。3号店の店内確認と新スタッフとの打ち合わせ、開店へ向けてのサポート役としての派遣。それが先輩がここに来た理由だった。



先輩はいつも通りの様子で研修を進めていく。最初は心配そうな表情でこちらをちらちらと見ていたバイトの2人は、スパルタ気味の先輩のおかげで、僕のことよりも目の前の皿を割らないことのほうが大事だと気づいたらしい。オープン当日は先輩がサポート役として入ることになり、作業の割り振りが決められ、最後は広報用の写真を撮って研修が終わった。



そそくさと帰ろうとしたが、先輩は見逃さない。首根っこを掴むようにして、そのまま店の奥のテーブルへ連れて行かれた。助けを求めるようにオーナーに視線を送ったのに、他の3人を連れてにこやかに帰っていってしまった。



恐ろしい気持ちで待っていると、先輩が「ちょっと冷めてるけど」と言いながらテーブルに2人分の紅茶を置いた。研修中にお手本として作られたものだった。いただきますと呟いて、少しぬるい紅茶をひとくち飲むと、懐かしさが溢れだした。


ほんの少しだけ、規定の時間より蒸らされて香りが上手に引き出された紅茶。なかなか真似出来ない先輩のこだわりが詰まっている。時間を忘れるくらい夢中でおしゃべりをして、紅茶が冷めてしまっても味を落とさないように。お客さんがいつまでも居てくれるようにという気持ちで、先輩が身につけた技術と味。元気なお年寄りが多い客層の2号店だからこそ生まれたものだ。



ほっと息をついたのも束の間、目の前に先輩が腰掛けて一言。


「で?」

「ひっ」


先輩らしいフランクさが今だけは逆に怖い。

どこから話したらいいのかわからない。


「あの…あ…すみませんでした、急に辞めてしまって…ご迷惑を、かけて…」


声が震える。どう謝っても許されないような気がしてしまう。次の言葉を紡げずにいると、先輩はいつもの調子で「最近どうなの?」と聞いてきた。


「えっ、あ…なんとか」

「安全なとこにいるんでしょうね」

「この近くでアパート借りてて、そこで」

「じゃあなんで連絡してこなかった?」

「…ご迷惑をおかけしたことを謝らなければいけないって思ってたのに…怖くて…すみません」

「…まあ色々あるんだろうってのは知ってたし、あんたが簡単な気持ちで逃げるようなやつじゃないこともわかってた。あれからあんたのお母さん、店の前に毎日来てたんだよね」


どくっと嫌な動悸がした。

続きを聞くのが怖い。


「あんたを探してた。ウチらも最初は気にしないようにしていたけど、他のお客さんからも指摘が入ったから私が対応した。最初は穏やかだったけど、だんだんヒートアップしてかくまってるんだろうとか言い出して。帰ってくれないし営業妨害になるから結局警察を呼んだ」


「……」


もはや謝ることも出来なかった。

ただただ絶句するばかりだった。

そんなにも迷惑をかけてしまっていたのか。


「そのあともしばらく店に来てたけど、ウチらが知らないとしか言わないからいつのまにか来なくなった。娘がいなくなったってのに捜索届は出してないみたいだったから、ウチらとしても色々察する部分はあったよ」

「…あの人らしい事です」

「あんたがどこに行ったのかも実際誰も知らなかった。連絡しても返ってこないし。だけど本当に仕事が嫌になってバックれたって可能性もあるから、待つことしか出来なかった。1ヶ月くらいたった頃に退職として処理した」



先輩は手元に持ったファイルから少しよれた紙を取り出してテーブルに置いた。2号店の解雇通知書だった。



「形式上渡さないといけないことになってるから、今更だけど一応渡しとく」

「…すみません」


突然行かなくなったのだから当たり前のことだ。情けない気持ちで慣れ親しんだ場所からの解雇という言葉を受け止めていると、先輩が言葉を続けた。


「3号店の教育管理は、私がやることになってた。基本はオーナーさんに任せてるけどスタッフの採用については私も関わってる。だから面接報告書にあんたの名前があった時、めちゃくちゃホッとした。理由はどうあれ生きててくれてよかった」



暖かい言葉だった。静かな店内で、紅茶を啜る音だけがを繋いだ。



「ま、あんたが生きてたことはわかったし、無断欠勤についての謝罪は聞いたからもうそれでいい。どうやらこの会社が嫌いになったってわけでもなさそうだしね」



先輩が手元のファイルからもう1枚、今度は綺麗な紙を取り出した。解雇通知書の上に重ねるように置かれたのは、この3号店の雇用通知書。


「他の2人にはオーナーさんが渡してる。ただ、これだけは私から渡したかった」



じわじわと視界がにじんで、せっかく用意してくれた書面の文字がほとんど見えなくなっていく。


「おかえり、海宝かいほうちゃん」


鼻水をすすった時、優しい匂いを感じた。

時間が経っても香り高い、先輩の紅茶だった。

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