第15話 桃がはじめて咲く季節
3月10日 晴れ
近所での桃祭りのチラシが入ってた。この冬は雨が続いていたから例年より開花が遅れているらしい。満開になったら弁当持って行きたい。
良かったこと:朝の散歩で出会った柴犬が可愛かった
面白かったこと:宗教勧誘の独特な理論、聞くだけなら面白いから好き
・・・
桃葉は、こちらから何か言うのをいつも待っていてくれる。
この距離感が心地良くて、つい甘えてしまいそうになる。謝らなくても、普通に元通りになれるような気がしてしまう。煩わしさが少ない一方で、こちらが気持ちを開かなければ向こうも開いてくれないような危うさを持ち合わせている。家族だけど家族じゃない、特別な関係性だからだろうか。
あの日の自分はひどい状態だった。
カウンセリングでは客観的な目線が欠けていたことを指摘され、急所を
あんなに大きな声を出したのはいつぶりだったろう。理不尽なことを大声で怒鳴ったり、相手に負の感情を
されたら嫌なことはしたくない。
されてきたことだからしたくない。
母の話を聞いて以来、不安と焦燥感がつきまとうようになっていた。存在すら忘れてしまいたかったのに、いざ思い出してしまうと切れかけの電球のように、何度も脳裏をチラついて思考の邪魔をする。
自分のためにできることはしてある。住民票は親でも閲覧できないように制限をかけてある。手間も時間もかかったけれど、安心と安全を手に入れられる。防犯対策もしているし、インターホンはカメラ付きだ。
わざわざ安くない防犯設備を整えたのは女の一人暮らしだからではない。本来最も安心できる存在であるべき親から自分を守るためだ。血の繋がりがあろうとなかろうと、害のある存在のことは避けて生きなければならない。親子の愛情を信じてやまないのは、親に迫害されることすら考えたことのない幸せな人間だからできることだ。
だけど、たまに虚しくなる。
なんのための努力なのか。
なんのための警備なのか。
最近の日記を見返すと、ほんの数行で雑にまとめられていて、自分の気持ちの波がよく見える。余裕のある日は感じたことや出会ったものについてしっかりと書き留めてあるのに。
何の発見もない日などない。多かれ少なかれ心が動く瞬間はある。先輩のおかげで地元に残してきた後悔のひとつが解れて、少し安定した気持ちを取り戻せている。この日常の小さな変化を桃葉と共有したい。
でもその前に、謝らなければいけない。
あれだけの激昂をぶつけられて桃葉が可哀想だ。どんな関係性だろうと、サンドバッグのように気持ちや理不尽をぶつけていい相手などいない。どれだけ後悔しても口から出た言葉が戻ってくるわけでもない。吐いた言葉も気持ちも誰かにぶつけた以上は戻らないし、誰かにつけた傷はなくならない。
「桃葉」
「なあに」
桃葉の声は優しくて、いつも通り気遣いも怒りもない。いつも通りに甘えたくなってしまう。それでも震える喉で、必死に言葉を押し出した。
「ごめんなさい」
「うん」
「この間怒鳴ってしまったこと、悪かったと思ってる。だけど、どうしたら良いのかわからなかった。気持ちが爆発するみたいに言葉が出たんだ。桃葉が何も言えないだろうってことをわかっていて、あんな責め方をしてしまった」
「うん」
「わかってほしいと思っているのに言葉ではうまく説明できない。言葉にしなければ桃葉に伝わらないことはわかっているのに」
「そうだね」
桃葉の受け止め方は、ジャム瓶の蓋をひとつひとつ閉めていくみたいに丁寧だ。ほんの少しの言葉なのに包み込まれる感覚がある。だからこそ優しさが痛い。それ以上どうにも謝る言葉が見つからなくてしばらく黙りこくった後、桃葉がようやく口を開いた。
「千歳がどうして謝るのか私にはわからないな。だってあの日の千歳はただ凹んでいただけで、何も悪いことはしていなかった。私のこといじめたわけでもない。なんで謝ってるのか本当は千歳もわかってないんじゃないの」
「でも、悪いと思って」
「なにが?どれが悪かったの?そんなに震えて謝らないといけないようなこと、千歳はしてないのに。それは千歳のクセだよ。防御本能だ。千歳は人間なんだから、怒鳴ったっていいよ。笑ってもいいし、泣いたっていいし、嫌だったら私のこと無視したっていいんだ。誰にだってある権限も尊厳も千歳は自分で
「ごめん」
「ほらまた謝る」
「でも」
「でもでもうるさいなあ」
「うぐ…」
「千歳のいいところは謙虚なところ。でも千歳の悪いところは、すぐに自分を引き算するところ」
「そういうつもりはなかったけど…でも多分…今そうやって言ってもらえて安心してる、と思う」
「桃ちゃんのありがたい言葉、ちゃんと胸に刻んでよね」
ふわりと花ひらくように、桃葉がはにかんだ。やっぱり、この温かさに少しだけ甘えてもいいだろうか。
「桃祭り、行こうね」
どちらからともなく、そんな約束をした。
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