第16話 虫が白紋、描くよう


3月15日 晴れ


春物のジャケットに衣替ころもがえ。失くしていたイヤホンを袖ポケットから発掘したけど、何も聞こえなくて結局捨てた。去年、洗濯機にかけたときに死んでしまったんだろうな。南無三。


良かったこと:室内緑化計画成功

頑張ったこと:窓と部屋の掃除



・・・



スーパーからの帰り道、小さな花屋の店先で足が止まった。


目を引いたのは、鮮やかな黄色と優しい緑。一本ずつ丁寧に切り分けられた菜の花が、店頭に置かれた水鉢にたくさん生えていた。


こういう切り花は、普段あまり意識しないのに、ひとたび目に入ってしまうとその魅力というのはとても強いもので、単価が安いこともあってついつい手を出してしまう。たとえば鬼灯ほおずきの枝なんて、僕にとって至極品だ。乾いても一年ほどはその美しさを保つのだからコスパも良い。毎年買ってしまう。



花瓶はないけれど、けられそうな酒瓶のひとつやふたつならまだあるはず。そんなことを考えながら吸い寄せられるように入った花屋の中には様々な色が広がっていた。


見たことのない植物が沢山あって、ついつい覗き込んでしまう。ハーブは正直違いがわからないけれど、どれもこれも可愛らしくその葉を広げている。


しばらく店内を見てまわったあと、カウンターの向こうで花を切ったり紙にくるんだりしている店主のおばあさんに声をかけ、菜の花を数本と、観葉植物の鉢を買った。



ポトス。

ポトフみたいで名前が可愛い。


柔らかくも元気いっぱいな黄緑色の葉をみて、つい一目惚れしてしまった。なんとなく桃葉みたいだと思った。



店を出る間際、菜の花の周りでモンシロチョウが羽ばたいているのを見かけた。もうそんな時期か。モンシロチョウは菜の花に止まって蜜を吸ったり、ふわっと離れたりを繰り返し、数分後にはどこかへ去っていった。



この菜の花は、切られた時点で植物としては死んでいるだろうに、それでもこうして鉢の中で水を吸い上げ、最期まで蝶が止まりたくなる美しさを残している。まるで今もまだ根を張っているかのように、真っ直ぐに空を見る。


どこかの公園にでも花粉を運んでくれれば、花の命は引き継がれていくんだろうな。蜘蛛の巣に引っかかるなよと心の中で声をかけながら、空に小さくなっていくモンシロチョウを見送った。



帰りがけにうっかり時間を使ってしまい、家に着いた頃には買ったアイスが袋の中で切なく溶けていた。まあ、腹に入れば同じだろうと冷凍庫に放り込む。願わくば元の形状に戻りますように。


さて、この花をどこに飾ろうか。


やはり窓辺が良いだろうかと見渡したけど、全体的にごちゃごちゃしている。どうも最近片付けをサボっていたツケが回ってきたようだ。結局そのまま部屋の掃除をすることにした。


普段はサボりがちな片付けでも、一度手をつけたらある程度やり込まないと気が済まない性格が出てしまった。帰ってきたのは3時ごろだったのに、いつのまにか窓の外はとっぷりと夜の闇に包まれている。


せっかく綺麗にしたのに。太陽の下で咲く美しい黄色を眺めるのは、明日に持ち越しとなった。空き瓶の収集日を忘れたまま放置していた細い酒瓶を見つけ、ラベルを剥がしながら「自分のズボラさを信じて良かった」と思った。



水を汲み、おまけにもらった栄養剤を数滴垂らして菜の花を入れてみる。花が数本あるだけでも、なんだか丁寧な暮らしをしている気がする。見ているだけで心が晴れ晴れするようで、単純な自分に対してすこしおかしな気持ちになる。


いっそ家庭菜園でも始めてみようか。バジルとかなら食べれるし結構良いんじゃないか。


植木鉢は水やりを忘れないように日当たりの良い棚の上に置いた。店主のおばあさんが言うには、丈夫な植物で世話を怠らなければ、一年中楽しめるらしい。世話を怠らないというのが一番難しいのだけど。




「なんか随分頑張ってると思ったら」

「疲れたけど結構スッキリした」

「わ、お花だ」

「良いでしょ、これ」

「良いね、春だねえ」

「昼間に蝶も見たし、桃祭りの頃には菜の花畑にたくさん咲いてるよ。一緒に観に行こう」

「うん、晴れるといいね」

「それにしてもお腹空いたな」

「どうせ朝から何も食べてないでしょ。なんか作るの?」

「うーん…そうだね」


食材の入った段ボールから、じゃがいもを一袋取り出した。


「今日は、ポトフにしよっか」


桃葉は一瞬きょとんとしてから、にーっと笑った。


ちょっと恥ずかしくなっただろ。

やっぱりコイツ、ちょっとだけ意地悪だ。

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