小満

第29候 蚕、繭糸をほどく

5月21日 晴れ


クーポンがあったから美容院の予約をとった。思った以上にバジルの成長が早いので5枚ちぎってトマトパスタにいれて食べた。愛情と水を注いで大事に育てた我が子の味だ。謎の感慨。でも入れすぎたと思う。


良かったこと:チケット争奪戦、勝利

頑張ったこと:団体客の接客



・・・



SNSの友達に同じ俳優を応援している子がいる。いわゆる「推し活」仲間だ。


名前は「百舌鳥モズ


本名ではない。本名自体は知っているけれどその違いはそんなに重要ではない。僕だって彼からすればハンドルネームの「アカリ」が占める部分の方が大きいだろう。


期間でみればかなり長い付き合いで、これまでいろいろな話をしてきた。楽しいことも愚痴でもお互いによく話せてとても気の合う子だった。同じ市に住んでいるということは知っていたし、声は通話や配信を通して、何度も聞いたことがあるけれど、実際に会ったことはなかった。


そんな彼から『一緒に映画行かん?』と連絡が来ていた。ふたりとも待ち望んでいた推しの映画の公開日が、数日後に控えていた。絶対に初日に観にいきたくて、その日はバイトも休みをもらっている。



「26日は空けてある」

アカリも初回行くでしょ?』

「チケット争奪戦の戦果による」

『それはそう』

「2窓しよう」

『そうしよ』

「取れなくてもグッズかうから映画館には行くつもりだよ」

『こっちもその予定だから同行したい』

「じゃどう転んでも11時に映画館でよい?」

『おけ、楽しみにしとく』

「戦に勝って此処でまた会おう」

『歴戦の風格じゃん』



短く素早いレスポンスですんなりと一緒に出かけることが決まった。



ネットにだって親友と呼べる人はいるし、なんとなく互いの生活の端々をみているだけの相手でも大切な交友関係のひとつだ。相手は選ぶものの、誰かに自分のことを開示することも、別に嫌いなわけじゃない。百舌鳥モズは価値観が自分と似ていることもあって、とにかく気楽な相手だった。


それに、せっかく都会に出てきたというのに、家の周辺と職場と病院の行き来ばかりで生活が完結してしまっているのは勿体ない。趣味のつながりなんて身近にはほとんどない現状。家には桃葉がいてくれるけど、やっぱりどうしても生身の人間じゃないと分け合えないことがあるのも事実だ。


この映画だってそう。観たあとに溢れんばかりの感情をSNSに書き散らすのもいいけど、同じ想いを持つ誰かと盛りあがれたら楽しいだろうなとは思っていた。



「どう?」

『無理、サーバーに一生入れん』

「僕は12時の回 2枚とった」

『えっまじで??る?』

「まじです」

『やば…神様…』

「ちなみに真ん中」

『ゼウスじゃん』

「崇めて」

『こればかりは崇めるわ』

「ありがとう」

『当日よろしく』

「こちらこそよろしくお願いします」

下手したてにでるゼウスおもろいな』

「ね」



そうしてあっさりと百舌鳥との初対面が決まった。少しだけ心拍があがるのは楽しみで高まっているときのほうの緊張感だ。


最近になって、少しずつ周囲の人間関係が広がったり深まったりしてきている。自分の部屋だけが自分にとっての要塞だった頃とは、少しずつ変わってきているのかもしれない。


推し活、楽しみだな。


ふと見上げると、枕元に置いている大切な銀縁メガネが照明の光を受けて、ちらちらと光った。推しの限定コラボモデルだ。この日の為に買ったといっても過言ではない。いつも裸眼の百舌鳥はきっと持っていないだろう。


百舌鳥モズに会ったら、自慢しちゃおう。

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