立夏

第26候 蛙の静けさ響く頃

5月5日 晴れ


原付旅に出た。久しぶりにしっかりと遠出したので、振動を受けた腰がじんわり痺れてる。温泉のジャグジーに全身ほぐされながら呻く時間が欲しい。そろそろ自賠責じばいせきの更新日だから忘れるな、僕


良かったこと:気持ちよく走れたこと

嫌だったこと:煽り運転、腹たつ



・・・



早朝も強く冷えこむことなく、安定的に晴れの日が続いていた。春から初夏にかけてのこの時期は過ごしやすくて心地よい。今日も明日も晴れの予報。なんだか久しぶりに一人旅がしたくなった。



ベッドに転がったまま、周辺のツーリングスポットを検索する。こういうロード系は落とし穴が多いから、スクーターでは入れない有料道路のトラップにかかると目的の場所まで辿り着けないことがある。


広くて自由の効くところ。できれば車通りが少ないような田舎道を通りたい。とりあえず平日朝のラッシュを避けて街中を抜けられればいい。せっかくだから海にしようかと近くの綺麗なビーチを調べていると、気づけば30分が過ぎてしまっていた。


いけない、はやく決めないと。こうやって行きたい場所を探すのがいちばん時間がかかってしまう。小さく、それでいてワクワクするような焦燥感が胸を揺する。旅行前のいつもの焦燥感だ。



迷いに迷ってから、ひとまず海辺を目指すことにした。気楽な格好に着替え、充電器をカバンに詰め込む。カメラも持っていきたかったけれど荷物が多くて疲れてしまうから今日はなしにした。


最初に近所のガソリンスタンドに寄って、新鮮なレギュラーをスクーターにたっぷり飲ませてやると、ブルルルッと途端に景気の良い音を鳴らしてエンジンがまわりはじめた。我が愛車ながら、まったく現金なやつだとおもう。


車の切れ目を狙って車道に入り込んで流れにのり、ナビを頼りに目的地へ向かって走り出す。この瞬間がとても気持ちいい。



混雑した車道を避けながら知らない街をまっすぐに走り抜けていくと、だだっ広い田園風景に出会って、一瞬目が奪われた。


なんだか懐かしい景色だ。地元ではこういう景色が当たり前だった。都会に慣れてしまってからは、かつて高層ビルに向けた憧れはさっぱり消え去り、広い空が見える場所を探すようになっていた。


人なんてものは、ないものねだりでできていると実感する。


ミラー越しに後方から車が来ないことを確認し、エンジンを切って田園が見渡せる小道に車を停めた。ヘルメットを脱ぐと、爽やかで少し土臭い風が頬を撫でていく。気持ちいい。道端のコンクリートブロックにしゃがみこみ、カバンからおにぎりとお茶を取り出して昼食にした。



誰もこない。



時折、スピード違反の車が走り抜けていくだけの静かな田舎の風景だった。しばらくぼーっとしながらおにぎりを食べていると、ふと、この田んぼが静かすぎることに気付いた。


そうか、カエルの声がしないんだ。


地元ではこういう景色には決まって、けたたましいほどのカエルの鳴き声がつきものだった。こっちの地域にはあまりいないのだろうか。もうこんなに暖かいのだから、カエルが昼夜問わず大合唱しはじめてもおかしくない頃なのに。



静かな昼食を終えてから、もう一度走り始めると、途中で魅力的な坂道を見つけてしまった。混乱するナビの声をよそにルートを変え、坂道を越えていくとなだらかな山道が続いていた。


田園風景を見たせいかもしれないが、海よりも山にいきたくなり、結局そのまま山の周りをしばらく走った。空が鬱蒼とした葉っぱに覆われている場所を通ると、さっきまでのぽかぽかとした陽気が吹き飛ぶほどまで一気に冷えこんでしまった。日当たりの良い場所を探しながらまたうねうねと道を行く。


そうしていると、いつのまにか、元いた道に戻ってきて、なんだか満足してしまった。程よい疲労があるうちに帰ったほうがいい気がして、そのまま来た道を戻るように自宅へ向けてエンジンを唸らせた。



駐輪スペースの隅に停めてロックをかける。エンジンを切ってからも、しばらくチッチッチッと息を切らしている。いったいなんの音なのか未だによくわからない。こっちに来てから中古で手に入れたポンコツのスクーター。そろそろメンテナンスしないといけない時期かもしれない。


「おつかれさま」と呟いて座席をばふんと叩いた。特に理由はないけれど、帰ってきたときはいつもそうすることにしている。


アパートの階段をいくつか登り始めてからスマホをスクーターに取り付けたまま忘れていることを思い出した。めんどくささに少し呻いてから、数秒考えて、もう一度駐輪場に戻る。ふと、さっきまで青空だったはずなのにもうオレンジ色が滲むように空に広がっているのに気づいた。その変化に気づけるということは視野が広い証だ。少しだけ嬉しくなった。


スマホを回収したついでに、もう一発ばふんと、強めの「おつかれさま」を食らわせて、伸びをしながら再び部屋へ向かった。どっと疲れが押し寄せてくる。


寝落ちするまで桃葉に土産話でもしてやろうかな。

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