第7候 母鳥の熱、卵を伝う

1月30日 晴れ


オープニングスタッフの顔合わせの日。スタッフは僕を合わせて5人。小さなお店ならそのくらいで丁度いい。内装は本店とすこし雰囲気がちがうけど、それ以外は特に変わらない。綺麗な丸みを帯びた銀食器も、レトロな有線も。なにより嬉しかったのは、みんなが優しくて、よく笑う人達だったこと。ホワイトな場所がいいという願いはひとまずは叶ったみたい。神様、ありがとう。


嬉しかったこと:ベテラン扱いされたこと

焦ったこと:ドリンクの作り方忘れてた



・・・



居酒屋にいたときは、お金のことだけ考えて働いていた。


大学生達の高いテンションにはついていけず、かといって、主婦達の複雑な人間関係に混ざることは面倒で、愚痴と八つ当たりが得意技の店長とは話したくはなかった。


時折、店での飲み会に誘われることはあった。毎度断り続けていたらいつのまにか孤立した。とはいえ、仕事に必要な最低限のコミュニケーションは取れていたし、便利な世の中のおかげでオーダーは機械が勝手に通してくれる。


もはや分担作業を頼むことすらも面倒になり、ほぼワンオペでホール作業を回していた。


他人に興味を抱けるほどの余裕もない。まかないが出ることと、閉店間際は時給が上がること。その程度しか魅力がない職場だった。



だから、こうしてなにかを楽しみに仕事をするのは久しぶりだ。



今日の顔合わせでは、オーナーによって自家製珈琲と試作品のシフォンケーキが振る舞われた。豆は本店と同じだから、珈琲の味は変わっていない。ガリガリゴリゴリと自動ミルの音が響く。同時に懐かしい香りが店内を満たしていく。お茶会のような雰囲気のなかで、互いに自己紹介をして、珈琲の基礎的な知識がまとめられた研修資料を読んで、制服の試着をした。



店が変われば、当然、人も変わる。以前とまったく同じ職場になるなどとは思っていない。居心地がいいかどうかは、やってみなければわからない。それでも、嗅ぎ慣れた香りや、皿が触れ合う音が、あの日々を呼び戻してくれるようだった。


本店での勤務経験があることはすでに全員が知っていて、オーナーは「僕が分からなくても海宝かいほうさんが分かるから」と冗談めかして笑っていた。新人バイトの2人組は友達同士で一緒に応募してきたらしい。僕のことを「先輩」なんて呼ぶものだから、なんだか照れてしまった。



ああ、ワクワクするかも。



こんなにも単純に希望が持てる。踏み出した一歩が間違っていなかったと思える。


これから忙しい日々が訪れるだろうし、開店準備も、新しいお客さんの好みのブレンドを覚えるのもじぶんのことを知ってもらうのも大変だ。だけど少しずつ、この店と一緒に成長していければそれでいいんだろう。



帰宅後、貰ったばかりの名札をずっと眺めていると、桃葉の視線を感じた。


「な、何……?」

「んー?嬉しそうだなあって思って」

「…まあ、ね」


そんなことない、といつもの自分なら咄嗟に言い返しそうなものだけど、今日ばかりはそんな言葉も引っ込んでしまった。それだけ嬉しい日になったということだ。


「良さそう?」


それは、色々な意味を含んだ質問だった。


名札を軽く握ると、優しい木目もくめが肌に馴染む。柔らかな書体で自分の名前が刻まれた手作り感たっぷりの名札が、自信をくれるようだった。


「とっても良かった」

「それなら良かった」


もう、1月も終わる頃だ。

ようやく歩き出せる気がする。

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