第6候 水澤凍る、心は動く

1月25日 曇り時々雷


最近はずっと天気が悪い。雨が降る前に買い物がしたくて駅前まで行った。正月の売れ残りがちらほらあって、結構得をした。仕事用の白シャツと新しいコートを買った。度数を変えるだけのつもりだったのに、結局新作のフレームを買っていた。推しとのコラボモデルという言葉の誘惑には到底勝てやしない。満足。


良かったこと:綺麗な銀ブチ眼鏡が買えた

嫌だったこと:服屋の店員がしつこかった



・・・



駅前まで出てきたのは久しぶりだ。


前回来たのは昨年のクリスマスの日のこと。大きなツリーが飾られ、無駄に陽気で騒がしい音楽が鳴り響き、周囲には浮かれきった人達が群がっている。その横をすり抜けながら、憂鬱な気持ちで歩いたものだった。


邪魔だとか、そんなところから撮っても被写体は映えないとか、なんでもいいから指摘してやりたかった。普段は気にも留めないキャッチを目で射るように睨んで歩いた。


繁忙期のバイトをこなしながら、区役所や銀行、免許の更新などを一気に片付けて心身ともに疲労していたところに、カウンセラーから色々と手痛いことを言われてショックを受けていたからだ。


こんなに頑張っているつもりなのになぜ報われないのか、こんなに能天気な人たちばかりが幸せそうで、どうして僕にはおなじように幸せが舞い込まないのか。周囲が幸せであればあるほど、じぶんの不幸が増えるような気がしてくる。


腹立たしくはなかった。

ただ、あの時は虚しかった。



一転、今日の街はとても静かだ。


天気のせいもあるだろう。雲間からわずかに青が覗きみえる程度の曇天。時折、遠くから雷鳴が聞こえてくる。なんだか、沈んだ天気が僕の陰鬱を肩代わりしてくれているようで、いつもより身体が軽かった。


いまの環境が変わりつつあるのは大きいと思う。


人は単純な生き物だから、じぶんが安寧の中にいる時は他人を疎まずにいられる。そうでなければ他人の安寧にケチをつけたくなる。今の僕は、取り組まなければいけないことや未来の道筋が少しながらも見えている時だから、これだけ落ち着いていられる。



桃葉の存在は大きかった。隣にいてくれるという安心感が気持ちにゆとりを生んでくれる。


しかし、旅行の話をして以来、2人の間にはピリピリした空気が流れ、この数日間、僕は桃葉にほとんど話しかけられないでいる。なんだか桃葉からも距離を置かれているように感じる。


本当に些細なことだったのに。


桃葉を怒らせてしまっただろうか。僕があからさまに不機嫌な返事をしたから腹を立てたかもしれない。心当たりはいくらでもあるが、帰ったらなにかひとつでも話したい。


今日買った物を見せて、そしていつもみたいなすべてを包み込むような桃葉の笑顔がみたい。人生の中でひとりの時間がとても長かった僕にとって「仲直りがしたい」というのは、久しぶりに抱く感情だった。



「うう、寒…」


帰宅後、すぐに暖房をつけ、ジャケットを脱いでハンガーにかけておく。そして冷えた手をこすりながら荷物の整理をはじめる。今やらないと絶対に床に置くようになってしまう気がする。


イヤホンを外し、スマホを充電器に繋いで、財布の中身を確認する。ついでに溜めこんでいたレシートをまとめてゴミ箱に捨てる。机の上の日記を開いて、数行で簡単に今日の出来事を書き留める。


淡々と片付けをするのは、余計な物を先に片付ければ、気兼ねなく買ったばかりの宝物を広げられるからだ。開封する喜びを増幅させるための行為に他ならない。


それに今日の買い物は豊作だったから、正直自慢したくてたまらないのだ。視界の隅にいた桃葉に、平常心を装いながら声をかけた。



「あの…もも、えっと…ほら見て、これ買ったんだ。正月の福袋の売れ残りだと思うんだけど半額で。暖かいし着心地も良かった。今着てるのはフードなくて不便だから、それにこのジャケットは捨てたくて…実家から持ってきたものだし、捨てれば気持ちもだいぶ楽になりそうだし、そもそもヨレヨレだし…」


そこでようやく話すのを一旦やめ、桃葉をチラリと見上げた。いつもより口が達者に動かしたのは、先日までの空気を打開したかったからだ。言い訳じみた言い方になってしまうのは、話しかける妥当性が欲しいからだ。


桃葉がこちらに近づいて来る。もしかしたら怒られるかもしれない、そんな思いが駆け巡る。


瞬間、両腕が自身を守るように動き、防御姿勢をとった。腕が勝手に動いたのは怒られるのが怖かったからだ。桃葉はそんなことはしない。できない。だから、そんなことは起こらないと分かっているのに、身体に刻み込まれた反射を抑え込むことは容易ではなかった。


しかし桃葉の声や表情はいつもと変わらなかった。そりゃ、そうだ。



「うわぁ、それ可愛い!カーキってやっぱり千歳によく合うよね。灰色に青の組み合わせもすごく似合ってるけど、冬のコートはそのタイプが一番似合うと思うよ」

「…あ…ありがとう。あとスタバも行ってさ、パインのやつ飲んだよ。そのあと視力見てもらうために眼鏡店に行ってね…」



話しているうちに2人の間にあったわだかまりは、不思議なほど簡単に流れ去りあたりまえの日常が戻ってきた。桃葉がそうしてくれた。


そうして気付かされる。日常から逃避していたのも、距離を置いていたのも僕だけだった。桃葉は変わらず日常で待っていてくれただけだ。いつのまにか先日のことはどうでも良くなっていた。僕の言葉が足りなかったんだ。いつかちゃんと桃葉と話せるようになるといいな。



でも、とりあえず今日は何事もない久しぶりの会話を楽しんでいたい。



眼鏡の話になってからは、僕はもう小細工なんて考えもしていなかった。ただ気持ちが昂るままに話した。どこが魅力で、どんなパーツがこだわりで、おなじモデルの銀ブチ眼鏡をかけた推しのことを、いつもより早口で話した。


桃葉は、可愛いだとか綺麗だとか似合ってるよ、などと相槌を打ちながら、いつも通り僕の隣に座って優しく笑う。その夜は僕の話をいくらでも聞いてくれたのだった。

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