立春

第8話 東の風が心に溶ける

2月4日 晴れ


寒さが少し和らいできて、寝つきが良くなった。ただ、暖房代が馬鹿にならないので早く春になってほしい。百貨店で「惑星チョコレートセット」を衝動買いした。チョコじゃなくていいから部屋に飾りたいくらい綺麗。高かったけど「迷う理由が値段なら買え、それ以外なら買うな」ってどこかで聞いたから買った。あれは誰の言葉なんだろう。


良かったこと:夕焼けが綺麗だった

悪かったこと:なし



・・・



「それ、模型?」

「実はこちら、なんとチョコなんです〜」


探検隊のアナウンサーのような口ぶりで、机の上に広げた惑星チョコレートをひとつひとつ説明しながら桃葉に見せた。


「太陽、月、水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王てんのう星。そしてこれが海王かいおう星」

「あれ、最後の小さいのは?」

「まあ…このラインナップで来るんだったら、多分…冥王めいおう星なんだろうけども。でも冥王星は分類上では惑星ではないから、さてはニワカだなって思ってるところ」

「そりゃまあ、宇宙ガチ勢に向けての商品ではないよねえ」

「いや、こんなのは中学で習う基礎知識だよ。そもそも冥王星が惑星の系列から外されたのはもう15年くらい前のことだし、そのあたりの知識すらアップデート出来ないなら、惑星グッズなんて開発するもんじゃない。こんなの市場に出してたら本気で研究してる人や愛好家が怒るよ」

「もう…それ鏡みて言いなよ…」



僕は、宇宙や星が好きだ。


理系ではないからあまり難しいことはわからないけれど、宇宙という分野には強く心が惹かれる。深夜にフロリダから配信されているロケットの打ち上げや組み立ての動画を眺めていると、静かに気持ちが熱を帯びていくのを感じる。フェアリングの構造やノッチボルトのことを初めて知ったときには胸が躍った。


人間の英知が全て団結したとしても、この世界の未知の領域は増えるばかりで減ることがないのだから。



子供の頃は、海岸沿いで満点の星空を飽きもせずに眺めていた。大人になればなるほど身体は宇宙に近づいたはずなのに、目に見える星の数は減ってしまった。


宇宙は知識そのものだ。


地球にあるもので例えるならば広大な海に等しい。深さも広さも底知れず、その一部すら知っている気でいること自体が無知といえる。だけど知らないことを知る術は限られていて、自分が何を知らないかすらも分かっていない。


海の塩分濃度も地形も深さも場所によって変わるから、北にいる人にとっての海と、南にいる人にとっての海は全く違う。


だから互いに言葉を交わして、相手にとっての海を知らなければいけない。こちらにとっての海についても知ってもらわなければならない。


いつも水流が強くて押し流されそうな脅威に怯えている人もいれば、波のひとつもたたない穏やかな水面みなもしか見たことのない人もいる。


ひとつの脳みそでわかる範囲なんて、ほんのわずかなのだから、知らないことでも分かり合おうという気持ちをもって、他人が知る海を知り続けることでしか、いま以上に世界を知るすべはない。


なんてことを、話したいままに語っていると「千歳のいうことは難しくてよくわからん」と桃葉に遮られた。好きなことを話すときはこういう言い回しをしてしまうのが僕のクセだ。知って欲しくて、つい饒舌じょうぜつになってしまう。


「すべて知ってる人間なんていないってこと」

「神様ならわかるかな」

「…どうだろう。全知全能のゼウスはギリシャ神話においては神様の王だけど、他人の気持ちが分からなかったから、浮気もしたし、人を傷つけたりする話がたくさん残ってる。特に星座なんかそういうの多いでしょ。なんでもできる無敵の神様でも、自分が手に負えないものや目に見えない物事は、きっとわからないんじゃないかなあ」

「もう、難しいってば~」


一瞬、沈黙が流れた。


「…桃葉は僕の気持ち、わかる?」


不意に口から出た質問は、すこし意地悪だったと思う。ぱちくりと目をまたたかせた桃葉は、すこし考えてから口を開いた。


「千歳とおなじくらいなら、わかるよ」

「おなじくらいか…」

「千歳がわたしに話してくれた量と同じだけ、わたしは千歳のことがわかるようになる。それしか知る方法はないんだもん。世界中のことは一生かけても知り尽くせないけど、千歳のことなら100年くらいかければ、もしかしたらわかるかもよ」

「かかりすぎでしょ」

「じゃあ時短じたんの為に、いっぱい話そう」

「…ふふ、そうだね」



じぶんのことを語るのは元来苦手な性格。だけど桃葉になら言えることが、たくさんある気がする。


そういえば、と日記帳の最後のページを開いた。シンプルな表に今年の月暦つきごよみがまとめられている。僕が日記帳を選ぶ基準のひとつに、この表の有無がある。


「バレンタインの日は、新月だって」

「へえ」

「桃葉、お月見しよう」

「月、ないじゃんか」

「ないから探そうよ」

「ほぉ?今日の千歳は詩的ですなぁ」


からかうように桃葉が笑うから、僕も笑う。

写し鏡のように、おなじ感情が溶け合う。


そして、考えた。僕はどれくらい桃葉のことがわかるんだろう。目に見えない相手の心のことをどれくらい知っているだろう。じぶんのことすらろくに見えてはいないのに。


「あれ、ちょっと待って」

「なに?」

「もしかして今年のバレンタインってそれだけ?お月見?」

「そうだよ」

「義理チョコもなし?」

「そうだよ」

「ええ、そのチョコちょうだい」

「やだね」



そう答えるなり月を模したチョコレートをつまみ上げ、そのまま口に放り込んだ。


お、案外、美味しい。暖かい白色でコーティングがされていたから、ホワイトチョコだと思っていたのに中はミルクチョコだった。自分で試してみなければ分からなかったことを、またひとつ知ることができた。


ふわふわとした優しい味が口いっぱいに溶けてどこまでも広がっていく。


これはきっと、知識の味だ。

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