第9候 うぐいすの声が春を呼ぶ
2月9日 曇り
はじめてアミューズメント銭湯に行った。昔ながらの銭湯とは違うあの娯楽感。僕の経験上、あれは世界一、素晴らしい場所だった。
良かったこと:疲れが取れたこと
悪かったこと:財布の紐が緩みすぎた
・・・
「ああ…」
ほぐれきった身体からは、そんな安堵のため息しか出ない。
柔らかいお湯に温まった身体、湯上がりに飲むコーヒー牛乳の異様な美味さ。漫画コーナーで気になっていた漫画を一通り読み、気になったものは通販の欲しいものリストに入れておく。ドリンクサーバーから素朴な味の紅茶を何度もおかわりして飲み、極限まで癒された身体を、最後は原付のエンジンによる振動がこれでもかというようにほぐしにかかる。ようやく帰ってきた我が家の柔らかい布団が僕を誘いこもうとしているのがわかる。
平凡なりにも素晴らしい1日を過ごした気がする。いつもの癖で机のうえの日記を開いたが、心地よい疲労のおかげで、眠たくてほとんど頭が回らない。ほとんど中身のない日記を仕上げ、そのまま布団に潜り込んだ。
「おやすみ…」
「千歳、流石にそれはないんじゃないの」
「んぇ?」
「コート脱ぎっぱなしだし、カバンも置きっぱなし。ピアスだってそのまま寝たらまたどっかいくよ?上着も着替えないと。どうせゴワゴワが嫌になって夜中に起きることになるんだから。最低限片付けたら寝ていいからさ」
「んん…もう…
まあ実際、桃葉のいう通りなんだけど。
眠い目を擦りながらも、重たい身体を起こしてTシャツに着替えた。昨日のうちに夏用の部屋着を引っ張り出しておいてよかった。
「リラックスはできた?」
「そりゃもうバッチリね…今日はもう睡眠薬なしで眠れそうだよ」
「良かった。千歳はすぐじぶんのこといじめるから、たまにはちゃんと可愛がらないとね」
「…そうだね」
久しぶりに半袖をきたことで、右腕の傷痕も目に入った。だいぶ綺麗に治ってきているが、身体はボロボロだったことをいやでも自覚させる。温泉で火照った身体は血流が良くなって、より一層古傷をくっきりと見せつけてくる。
僕がじぶんでつけた傷。
親からつけられた傷。
さまざまなかたちの傷。
それを忘れるなとでもいうように。
忘れることなんかできるわけがないのに。
温泉では裸になるのが当たり前、だから最初は迷っていた。そういう目を向けられるかもしれないと一抹の不安があった。でも賑やかな大浴場にいる人々の笑い声がそんな不安を消え去ってくれた。
胸の垂れたお年寄り。
しかし誰もそれを恥じて隠そうとはしていなかった。友人同士で湯に浸かって談笑していたり、気持ちよさそうに怪我の痕を揉んでいたり。反対に一見健康そうでも、その内面や環境で何を抱えているかなんて知る由もない。
温泉からあがれば、みんないつもの服を
普段隠しているだけで、きっと誰にでも見えない部分に傷がある。人がそれぞれ違う傷を持つことはあたりまえのことなんだろうな。もちろん傷を見られたいから、こういう場に来ない人もいるだろうけど…僕はむしろ反対の価値観をもっている。
「千歳?」
「ん?」
「いや、急に黙るから」
「…だいぶ治ってきたなって、思っただけ」
「温泉の効果だったりして」
「さすがにそこまで即効性はない」
「そう?残念」
「でも……今日は僕と他人の境目が薄くなった気がしたんだ。僕が普通の人間になれたみたいに感じた」
「もともと千歳は普通の人でしょ。地位とか肩書きとか貯金とか、そんなの後付けステータスだもん。どんなに課金コンテンツで武装したって、生身の人間そのものは変わらないんだもん。その背景にどんなストーリーがあったとしてもね」
桃葉のいうことは綺麗事かもしれない。
実際に生まれや肩書きで人は価値を決められることがある。それは他人が勝手に人間を取捨選択するためのツールだ。学歴なんてその最たる例だし、この世にはステータスこそが誇りであり実力だと思っている人がたくさんいる。
だけど、ゲームの廃課金プレイヤーから、もし全ての装具も武器も取りあげて、怪物相手に生身で戦えといったら。果たして「人生イージーゲーム」なんて言ってられるだろうか。
「回数券、買っちゃった」
「お、相当気に入ったんだね」
「お湯に浸かってると、色々悩んでいたことが解決したり、次にやりたいことがどんどん浮かぶんだ。もともとお風呂で考え事するのは好きだけど、特に
「じゃあ、バイト頑張らなきゃだね」
「…ふふ、そうだねえ」
財布の中身を確認し、着替えを洗濯機に放り込む。スマホを充電器に挿して部屋の灯りを消し、今度こそ布団に潜り込む。そして、文句ないでしょという顔で桃葉を見た。
「ま、いい日だったみたいだし言うことなしかな」
「じゃあ、今度こそおやすみ」
「はいはい、おやすみ」
静かになった布団の中。とくんとくん、と体の中で安堵の温もりが巡る音がする。羊水のなかで眠る子どもみたいに、その音に耳を傾けていると、温もりに深く深く沈んでいけるような感覚がした。
その日はじぶんの鼓動に抱かれて、眠りについた。
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