第10候 薄氷の下、魚が観た月

2月14日 晴れ、新月


澄んだ空気の日だった。今日は桃葉と約束したお月見バレンタイン。街の中では星が見えにくいから展望公園へ。道中、適当に寄った喫茶店で食べたガパオライスが美味しかった。


良かったこと:いい天気だったこと

頑張ったこと:安全運転、山登り



・・・



少しずつ仄暗ほのぐらくなっていく展望台。ジジッと時折鳴く不安定な街灯の下で簡単な日記をつけた。お月見の感想はあとで書き加えておけばいいだろう。


「こんなところで日記書くの?」

「そうだよ。今日が終わらないうちに。どうせ帰ったら疲れてすぐに寝ちゃうだろうからね」

「相変わらずマメだなあ」

「心置きなくお月見するためだよ」



しばらく引きこもっていたせいで、体力が落ちていたから、ここまでくるのは少し骨が折れた。まだ冷たい風が身を切る時期。原付で街並みを抜けながらしばらく走り、街の外れにある小さな山の麓に原付を停める。そこから緩やかな階段を登ること1時間。


「登山ルート30分」って書いてあったくせに。体力があって大幅で歩く成人男性の基準を前提にするなよと、小さなイライラを荒い息に乗せて吐き出しながら歩き続けてここへきた。



乾いた喉の欲しがるままにサイダーを流し込み、荷物を持ってベンチから立ち上がる。もう少しだ。展望台から50mほど坂道を登っていった先には、一切明かりのない小さな公園がある。公園とはいっても遊具なんてものはなく、ただ敷地に柔らかい雑草が生えているだけの静かな場所だ。


カバンから遠足シートを取り出して広げる。子どものころの僕にとってこのシートはとても大きな世界だった。先生や友達と隣り合って座り、みんなで持ち寄ったお弁当や300円のおやつを広げても尚、ありあまるほどの世界だった。それがいつの間にか、この体が一つ収まるかどうかの小さな世界になってしまっている。


でも、今日はこれだけで十分。


服が汚れないように寝転がって時計を確認する。しまいきれない足は諦めて草原に投げ出した。あと15分ほどか。丁度いいタイミングだ。足元を照らすために持っていたスマホの灯りを消すと、途端にあたりは闇に包まれた。


「わ、真っ暗…でも全然、星見えないよ?本当に晴れてる?」

「大丈夫だよ、すぐに目が慣れるから空を見ていて」

「ん…」


そのまま数分が過ぎた。

すこし冷たい空気が吹く。

耳元で揺れる草の音が耳をくすぐる。

ゆっくりと夜の闇が身体に降りてくる。

宇宙が迎えにきてくれるような。

そんな感覚に心を浸らせる。


「あっ…」


桃葉が嬉しそうに声を上げた頃には、もう2人の目はすっかり闇に慣れていて、見渡す限りの星屑の海の中にいた。


街の中では街灯や雑居ビルや大きなネオンに阻まれて、星なんて一等星が見えるかどうかだったけど。星は変わらずここにあったんだ。頑張ってよかった。


しばらく何も言わずに、ただ、星が瞬くさまをみていた。遥か昔みたあの星空には遠く及ばないものの、この街でみられる星としては百点満点だろう。



「千歳!流れ星…じゃないかな。飛行機かな?」



桃葉が指さす先をみると、星よりも大きく、飛行機よりも小さい光の粒が、空をゆっくりすーーーっと駆けていくのが見えた。時間通りだ。これこそ今日僕が見たかったものだった。


「あれは、ISSあいえすえすっていって簡単に言うと宇宙船のひとつだよ」

「あいえすえす…」

「そう、正式には国際宇宙ステーション。あそこには世界中から選ばれた宇宙飛行士たちがいて、いろんな研究をして、ミッションをこなして、食べて寝て、毎日僕たちと同じように生きてる。日本の上を通る時間は、全部計算上わかっていて、見える方向も軌道も決まってる。晴れていて時間と方角さえわかれば、家からでも見えるんだよ。ほとんどの人は寝てる時間だから、あまり知らないだろうけどね」

「千歳は、本当はそれがみせたかったんだね」


そんな話をしているうちに、星空を数分間フライトした船は正常な軌道のまま、まっすぐ木々の向こうに消えていった。


「新月だから流れ星もよく見えるはずだよ」

「千歳、これってお月見じゃなくてお星見だね」

「…うん、ま、そうだねえ」

「今日は月が綺麗ですねって言えないね」

「言えないねえ…」


この星屑が散らばる空のどこに月があるのか。方角を確認する方法はいくらでもあるけれど、あえてしない。見えないものは、自分で見つけたい。


僕がしばらく黙ったからか、桃葉も黙った。


木々と風の音、そしてこの星空。

いまの僕らにとっては世界の全てだ。



とはいえ、真冬の山は寒い。かなりの厚着をしているとはいえ、あまり長時間ここにいては風邪をひいてしまう。ポケットの中のカイロをくしゃくしゃと握りしめ暖をとる。冷えきる前に帰らなければと思いつつ、目は星空に釘付けになったままだった。



「桃葉、これからもずっと一緒にいてくれる?」

「え、なにー?もしかして寂しくなっちゃった?」


からかうような桃葉の口調に対して、僕の言葉は存外重かった。


「そういうわけじゃないけど…僕と一緒にいて、桃葉は辛くないかなって」

「…どうしてそうなるの」

「毎日僕の都合で振り回されて、大変じゃないかなって。僕と一緒にいるの、疲れないのかなって。僕がかわってしまうことも、桃葉が変わっていってしまうこともたまに怖くなるんだ」


こうして誰かと心を通わすことが怖い。昔からそうだった。桃葉だけは違うと信じたいのに、本音では疑心の鬼が心に棲みついている。そんな僕に対する桃葉の答えは明解だった。


「一緒にいるよ」


空を見上げたまま目を閉じる。周りの音が静かになって、桃葉の声が頭に響く。


「千歳がわたしのことを必要としてくれる限り、いつだって一緒にいる。だってわたしは千歳だけの親友だもん。これから先もずっとそうだよ」


「そっか」


僕が生きていく限り桃葉はいてくれる……言われたかったことを桃葉に言ってもらったから嬉しかった。そして、言われたかったことを桃葉に言わせてしまったことが、すこし悲しかった。


目の端から熱いものがスッと流れ落ちて軌道の通りに地面へ吸い込まれていった。ここが暗闇でよかったと思った。誰にもこんな顔は見られたくない。


「…そろそろ、帰ろ」


ぐっと力を入れて体を起こし、遠足シートを雑に畳み、飲み物や日記とともにカバンにしまった。そして来た道をスマホで照らしながらゆっくりと歩きながら山を降りていく。


「ごめんね」


こぼした僕の一言は

風と砂利の音がかき消してくれた。

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