第21候 渡り鳥、北へかえる
4月10日 晴れ
お店のラスクをたくさんもらえたので嬉しかった。自分ではどうやっても作れないからいつかその技術を目で盗んでみたい。もうすぐ近所に本屋ができるらしい。楽しみ。
頑張ったこと:二度寝を我慢して起きた
良かったこと:お惣菜を沢山買えた
悪かったこと:半額という言葉に騙された
・・・
「お客さん帰っちゃったねえ」
「そうですねえ」
夜8時、最後の客を見送ったあとの締め作業をゆったり進めながら、オーナーと言葉を交わした。キッチンの中を忙しなく動き回るオーナーと、フロアの締め作業をする僕との2人だけ。クローズ業務は落ち着くから好きだった。
この店は狭い。最もカウンターから遠いテーブルを拭いていてもこうして会話ができる。多分どの店舗も同じ理由で設計されている。レジカウンターには
「ミルクが足りない」とぼやきが聞こえれば、呼ばれる前に新しいミルクポットを持っていくし、かちゃんとフォークか何かが落ちる音がすれば銀のトレイに代わりのフォークをのせてテーブルに向かう。
もちろんできないこともあるけれど、お客さんが「気にはなるけど店員を呼ぶほどのことではない」と
かといって全ての会話に聞き耳たてているわけでもなく、必要ない情報は右から左へ受け流してしまえばいい。監視されてるとは思わせないよう、そっと知らん顔をしてお客さんの情報を集めて、必要ならなにかを提供する。
はじめは自分のことだけでも精一杯なのに、そんな器用なことができるかと思っていたけれど、数ヶ月もやれば案外慣れていくもので…お店を愛してもらうためにはこちらから愛情を示さなければ、なんてJPOPの歌詞みたいに優しい教えがいつの間にか自分の中に染み付いている。
どれもこれも先輩からの教えだ。
「オーナーは、先輩のこと知ってたんですか」
「まあ研修会ではいつも…うん…お世話になってたよ」
ははぁ、口調から察するにそれなりの「お世話」を受けたんだろうな。観葉植物の影から「そっすか」と返事しながらにんまりしてしまった。
あの先輩のことだ。経営職であろうが社員同士だろうが、いつものスパルタだったに違いない。気の優しいオーナーが先輩にガミガミ怒られているのが目に浮かぶようで、申し訳ないなと思いつつも笑ってしまう。
「面接の時期、いつも通りに夜中リストアップしたことをメールで送ったんだよ。そしたら5分…いや3分もなかったかな。電話がきて…
「うわ、ご迷惑おかけしちゃって」
「いやいや…電話先で、優秀だと思えば採用してやってくれって言ってね。正直最初はその意味を計りかねたんだよな」
食洗機にコップをまとめて並べながら、ウィーン、ガラガラ、ガシャガシャという音にオーナーが隠れていった。話の途中で作業に消えることはよくあることだ。こちらも端から順番に椅子を机の上にひっくり返していきながら「先輩らしい」とぽつりとこぼした。
優秀であれば、か。
必ず採用してくれ、じゃないところが仕事熱心なあの人らしいや。えこ贔屓で採用したりしない。そしてその判断は、僕と直接話したオーナーにしっかりと任せるところ。
高校生だろうと主婦だろうと、顔見知りであろうとなかろうと、大事なのはその店にとって有益な存在になるかどうか。
実は、少しだけ気にしていた部分だった。自分の実力や面接での評価が本当は良くなかったのに、先輩から指示されて採用したのであれば、なんだか認められてないみたいで嫌だし、お店にも申し訳ないと思っていた。だけどそれは
「だよねえ」
食洗機の影から再び現れたオーナーは、さっきの僕の独り言をしっかり聞いていたらしい。この会社の人はみんな地獄耳に育てられるに違いない。多分入社式で社訓として教えられるんだろうな。「思いやり・高い品質・地獄耳」ってとこかな。
「社員と経営者。立場は違えど、あの人は僕にとっても大先輩だからね。色んな人が面接に来たけど今のメンバーで良かったと思ってるよ、僕の目は間違ってないみたいでよかったなあ、あと怒られなかったし」
「それは…なによりです」
もし人を見る目を誤ったら、きっと先輩から痛烈な一撃を食らうだろうから「良かった」んだろうな。まったくみんな苦労人だ。そういう僕も数日前に叩かれた背中がまだジンジンしている気がする。
ざっとホコリを回収してゴミ箱に放り込み、慣れた作業で軽く手を洗い、ラスクの詰め替え作業をする。このラスクがまた美味しいんだ。書類を探しながら一旦バックヤードに戻っていくオーナーの目を盗んで、一粒口に放り込んだ。口の中でじゅわっと広がるバターの風味がいい。
特別な材料ではない。サンドイッチの為に切り落としているパンの耳をサイコロ状にカットして揚げて、絶妙な加減にザラメがまぶされて…決して難しい工程を踏んでいるわけではないはずなのに、自力では再現できない。このレシピはどうも社員以上しか知らない秘伝の味らしい。
こんなに美味しいのだから、どうせならもっと大々的に売ればいいだろうに。いつも飲み物と一緒に小さいココットに10粒ほどいれて一緒に出すだけなのが、少しもったいない。ガサガサと書類を手にして戻ってきたオーナーに、作業の手は止めないまま質問を投げかけた。
「…私のこと、何か聞きましたか?」
「いやー?2号店にいた訳ありの子とだけ聞いた。正直それ以外は知らない。知る必要のあることであればこちらから聞くかもしれないし、それに海宝ちゃんが言いたいときに言ってくれればそれでいいと思うんだよね」
オーナーは特別な感情を込めもせず、当たり前のような、いつもの柔らかい口調だ。そういうところがやっぱり温かい。
ガリガリとミルが豆を挽き始めると途端に店内が珈琲の香りで満たされていく。洗浄機からぴいぴいと音を鳴らして出てきた食器は、たっぷりの温水で綺麗にされ、ホカホカと蒸気をあげている。ほんのり暖かい店内にゆっくり満ちていく香りが心を満たしていく。食器はすぐ触ると火傷してしまうから、今はまだこのラスクに集中していたい。
「私、前の店であだ名で呼ばれてたんすよ」
「へえ、なんて?」
「
「ちと…え?」
「ちとせまる。漁船みたいでしょう?地元じゃ漁業が盛んだったので、すっかり馴染んじゃってましたけど、よく考えたらこの名前めちゃくちゃ渋すぎるなって…思いだして」
「確かに強そうだ」
「先輩につけられました。しかも初日に」
そう、こんなふうに締め作業をしていたときのこと。
あれは珍しく暑い日で、何もわからないまま必死に初日を乗り越えた僕は、額に大汗をかいていて、もう髪型なんて気にするような余裕もなく、息を切らしながら食糧庫からキッチンを何往復もして、大きな袋を運んでいた。
そんな姿をみた先輩が、漁師みたいだといってゲラゲラ笑いながら、僕に千歳丸とあだ名をつけたんだよな。その日だけのノリだと思っていたら、次のシフトに入った時にはもう、全員がその名前で呼んできたから、抵抗するだけ無駄だと悟ったっけ。
懐かしい思い出話と2人分の笑い声が、珈琲の香りと一緒に店内に満ちていく。今日はそんな優しい日になった。
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