小暑
第38候 雲に隠れし、星屑の川
7月7日 すこし曇り
夕方、買い物帰りに笹飾りをみかけて今日が七夕なのを思い出した。もう遅い時間で科学館には行けなかった。
良かったこと:小説を読み進められた
頑張ったこと:特になし
・・・
七夕という行事に対して、特別な思い入れが無くなってしまったのはいつからだろう。子供が楽しむイベントというイメージだ。そして僕はもう子供にはなれない。
空が明るくなるたびにまともに見えなくなった天の川。いつの間にかときめかなくなってしまった
なにもかも昔に置いてきてしまったみたいで、意識していなければ驚くほど普通に過ぎる1日だ。せめて、晴れていればまだ良かったのに。
窓の外はうっすらと雲が広がっている。時折、晴れそうな素振りをみせたとおもえば、また中途半端に千切れた雲のかけらを空へばらまいていく。
どうせ今日はもう晴れないだろうと諦めてカーテンを閉め、そのままベッドに転がって目を閉じた。プラネタリウムでしか観られないような綺麗な天の川を思い浮かべて、瞼の裏でそれを観る。織姫と彦星が天の川で踊る様子を、そこに映し出した。
どうしてだか、桃葉の顔が浮かんできた。
少しだけ薄くなってしまった影が寂しい。
そして、先生からの質問が思い浮かんだ。
『海宝さんにとっての桃葉ちゃんはどんな存在だろう?』
先生が二度目の答えを求めるのには、それなりの意味があるはずだ。僕が考えていることがあまりにも漠然としていて、薄い雲が張ったような
親友ノートをはじめたばかりの頃。
自分を褒めることに強い抵抗があった。
どうしていいかわからなかった。
なにも頑張っていないし「えらい」と言えるだけのことも、何ひとつ成し遂げてはいないのに。自己肯定感をあげるための取り組みのはずなのに、日記を開くたびに自傷している気分だった。
褒めるところもないのに、無理やり褒めようとする行動そのものが「僕は無価値だ」と何度も何度も刻みつけてくるように思った。
どうしても思いつかないときは「褒め言葉」で検索した、自分にとってはなんの意味もない言葉を小さく頼りない文字で書きこんで、日記を閉じて、もやもやを抱えて眠りにつく。それすらも、いつのまにか続かなくなった。
先生は何も言わなかった。
待つ時期だと思ったんだろう。
こちらもヒントを求めなかった。
転機は突然だった。
SNSでたまたま見かけた美味しそうな桃の写真。オシャレの為に添えられた葉っぱの色合いが綺麗で、ひと目で気に入って画像を保存した。数日後、それをモチーフに可愛らしく笑う女の子の絵を描いた。名前はありきたりながら「桃葉」とつけた。
優しくて、可愛くて、とっつきやすくて、誰からも愛されそうな女の子。だけど自分の意思をきちんと持っていて、他人に流されなくて、違う価値観を受け止められる寛容な女の子。僕とは正反対の女の子。
そうやって桃葉というキャラクターを考えていたとき、ふと「この子が親友だったらいいのに」と思った。長いこと開いていなかった日記の中にいるはずの親友。それがこの桃葉だったらどうだろう?
「千歳、えらいねえ!」
これまで、どう頑張ってもできなかった褒め言葉が、するんと生まれ落ちて会話が成立した。ただのイラストだった桃葉に肉がついた瞬間だった。
そして驚くほどすんなりその存在を受け入れ、まるで快楽に溺れるように依存した。桃葉の存在がどんどん大きくなり立体感が増していく。
自分がつくりだした存在だということを意識の外に追いやってしまえば、何も手につかなくなるほどそのやりとりに没頭した。万能感に満ちて、治療すらもおざなりにしてしまった。
それが去年の冬。
桃葉の存在がすべてだった僕に対して、先生がひとこと「依存しすぎだ」といった。クリスマスの陽気に包まれていたあの街を、あれほど強く恨んで歩いた日はなかった。
あの頃を思えば、
桃葉と僕との2人だけで構築されていた安全な世界が少しずつ他のものに組み変わっていく。
それを人は社会性だと呼ぶだろう。
それを決して誰も責めはしないだろう。
だから僕だけは責めずにいられない。
「桃葉も寂しいでしょ?」
「…寂しいよ」
大根役者のような抑揚のない『桃葉役』の言葉が、虚しく自分の唇から零れ落ちる。
桃葉を必要としないくせに、桃葉には必要とされたいと願ってしまう『エゴ』
そして自分の世界が広がるたび、桃葉の影が薄まっていく『薄情』
なにより桃葉がいなくても平気でいられるという『現状』
どうしようもできないままで観る星空は、なんだか曇ったままだ。
桃葉と千歳のはなし 伊月 杏 @izuki916
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