第36候 菖蒲の花咲く
6月27日 晴れ
新商品のヒレカツサンドを
頑張ったこと:長時間勤務
良かったこと:素敵なお婆さんに話しかけられた
・・・
クローズ作業をすべて終わらせて、ようやくひと息
リュックを背負ってバックヤードを出ようとしたとき「海宝さん、待って」と社員さんに呼び止められた。
「これサイン書いておいてくれる?今度のシフトのときに出してほしい。ここに印鑑もお願いね」
社員さんが差し出したのは1枚の紙。
更新用の雇用契約書だった。
「あ、今印鑑もってます」
「そう?助かるよ、ありがとう」
ゴソゴソとリュックから筆記用具を取り出しつつ文面を眺める。これで3ヶ月の試用期間が終わり、いよいよ本雇用になる。そうか、ここに入ってから3ヶ月も経ったのか。とはいえただのアルバイトだし、雇用条件に特別変化はないし、シフトが変わるわけでもない。それでも自分の社会性が少しずつ認められていくようでなんだか嬉しかった。
「そういえば、アズさん昇進したんだって」
唐突に社員さんが口をひらいた。
話題そのものもあまりに唐突。
その意味を飲み込むのに数秒かかった。
「え…あのアズさんが?」
「そう、そのアズさん」
先輩の名前がこの人から出てきたことに少し驚いた。同じ会社の社員同士だし、実際こっちで研修だってしていたんだ。知り合いだったとしても、別におかしいことではない。だけど2人が相手の状況を知り合うほどの関係だとは思わなかった。
そういえば、この社員さんとはあまり話をしたことがない。日中から夜にかけての勤務がメインの僕に対して、この人はモーニングを取り仕切っていることが多いから、そもそもシフトが被ることが少なかった。
振る舞いはフランクだけど、研修の日にみんなで話しているときも穏やかに笑っているだけで、積極的に話題を振ることはしないから、なんとなく無口なタイプかと思っていた。まあ、僕も人のことは言えないか。
「こっちの研修してたでしょ。前々からそういう話はあったんだけど、3号店のマネジメント含めてこれからは本部で経営に関わるんだって」
「へえ…!すごい大躍進ですね」
でも、そうなると2号店では、もうあの紅茶が出せなくなるのか。おしゃべり好きのお婆様方が寂しがるだろうな。
「海宝さんは、1号店行ったことある?」
「ああ…2号店オーナーのお兄さんのとこですよね。向こうにいたときに何度かお茶しにいきました」
「そこが今かなり繁盛してるんだよね。スタッフも充実してきてるから、2号店もその流れで人が増えて余裕でたみたいよ」
「へえ」
そういえばまだ向こうで働いていたとき「もうすぐ店のローンが完済出来る」ってオーナーが安心した表情をみせていたっけ。
自分の店を持つというのはやっぱり大変なことなんだなと他人事のように考えていたけれど、ひとり暮らしをはじめてからその大変さを痛感するようになった。
人ひとり生きていくのだけでもこんなに大変なのに、たくさんの人を雇って管理して安全性も保つなんてなかなかできることじゃない。それだけの努力の結果が、ああいう愛される店なんだ。
「人材育成支援のプログラムとってるみたいだから、またこっちにも来てくれるんじゃないかな」
「うげ、マジすか」
思わず口から正直な反応が零れ落ちて、ぱっと口を覆った。
「それ絶対アズさんに言っちゃダメだよ」
「言わないっすよ、殺される」
「…海宝さんってちょっと思ってたのと違ったな」
ドキッとした。
気軽に言葉を返しすぎたか。
それともなにか失望させたか。
そんな気持ちが表情にありありと出ていたらしく、吹き出すように笑われた。
「いやいや、心配してるようなことじゃなくてね。なんかもう少しお堅い印象があったな。仕事のことだけで心を開いてくれない人っているじゃない?勝手にそういうタイプだと思ってたんだけど、案外話しやすくてよかった」
覆ったままの手に隠した唇で「あなたもだよ」と音を出さずに言った。
「うちは良くも悪くも小さい会社だからさ、そういうスタンスの方がきっとやりやすいと思うよ」
「聞いてもよければですけど…アズさんとはどういう関係なんですか?」
「同期だよ」
「えっほんとに?」
「私はサポート役にいることが多かったけどね。現場経験はアズさんにはまったく勝てないけど、私は広報やデザインに強かったから。アズさんパソコン苦手でしょ、だから2号店のメニュー表とかも私が作ってた」
「あのオシャレなやつですか」
「ふふ、そうでしょ?ありがとう」
他人との壁は、案外勝手につくりあげているものなのかもしれない。そのあいだにある取っ付きやすい共通点を見出すと、その壁は思ったより簡単に
3分で済むはずの雇用契約書のサインをするのに30分以上かかった。ひんやりとしたクローズ後の店内が、バックヤードの小さな灯りと言葉だけで暖かく満たされていく。
それにしても、あの先輩と渡りあって仕事ができるのはすごいな。「マフィアのボスと秘書みたいだな」と思ったことだけは、絶対に口から零れないように気をつけた。
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