8-10 一つでも短歌を作ればよかったんだから……

 葦名は家路の途中でスーパーに寄る。買い物かごを手に取り、食材を入れていく。キャベツ半玉。ピーマンは一袋に四個入り。豚肉細切れ二百グラム。長ネギは家にある。それと甜麺醤と豆板醤が切れてるかもしれないから買う。これで材料が揃った。回鍋肉を二人分作れる。そう、二人分。

 家に帰っても休んでいる暇はない。キャベツとピーマンと長ネギは切った。豚肉細切れを炒めて、野菜を追加。この前のカレーが辛いと言われたから、今日の回鍋肉は味を薄めに。余ったキャベツとピーマンは冷蔵庫の野菜ケースに入れてある。日ごとのバリエーションが少なくなるけど、明日も作れる。そう、明日も。

 炒め終わった回鍋肉はフライパンに蓋をして、葦名は今の家具調コタツの手前に座りスマホをいじって時間をつぶす。大丈夫。大丈夫。父はきっと帰ってくる。

 ピロロン。ピロロン。

 右手の中のスマホが音を立て始める。画面の上部から通知が降りてくる。

 電話の着信。発信元の市外局番は03。

 葦名の耳に、自分の心臓の音が響く。トクン、トクン、トクン。

 スマホは鳴り続ける。ピロロン。ピロロン。

 無視したい。無視したい。こんな電話、関わりたくない。

 いや、きっと間違い電話だろう。この前は神代さんの短歌で知らない人からかかってきたじゃないか。

 葦名が意識を逸らし続けても、スマホは鳴り続ける。ピロロン。ピロロン。

 葦名は、意を決して、「電話に出る」のボタンを押した。

「葦名律です」

「もしもし、こちらは○○○病院です。葦名律様のお電話ですか?」

 電話の向こうから聞こえてきたのは、三、四十代であろう女性の声だ。

「そうです」

「大変申し上げにくいのですが……」

 女性の声は途切れてはいなかったが、葦名には、「ですが」から次の言葉までの間に、人の一生が過ぎ去るほどの時間が空いたような気がした。

「お父様の葦名浩二様が、自動車を運転中に事故に遭い、当病院に搬送されました。浩二様の携帯電話の連絡先にご子息の律様の電話番号があり、ご連絡差し上げた次第です。律様に説明したいことがございます。明日、当病院にお越しいただけませんか」

 その後のことはよく覚えていない。しかし、人間は危機の際に、自動モードに入って身体が勝手に動くのだろう。明日のスケジュールは頭にちゃんと入った。

 窓の外が白み始める。夢を見た記憶は無い。ただ、天井にオレンジ色の常夜灯が灯っている様子が頭にぼんやり残っている。

 朝ご飯を作る気力は無い。近所のコンビニで買い食いすればいいだろう。

 最寄り駅は、高校に向かう道から見て、南方向に九十度回った方角。歩いていて、平日の朝に繁華街を通るのも、これほど多くのスーツ姿の大人を見るのも、自分の記憶にない。

 駅前のコンビニでおにぎりを二個買って、出入り口を出たところで食べる。歩道を歩く人の視線? 知るもんか。

 改札口をくぐる前に学校に電話を入れる。応対した教師は、父のことを伝えると狼狽した様子で、こちらは早く切り上げたくなった。

 電車に乗ると、乗客が多いのに驚いた。新型コロナウイルスが広がっているというのに、いまだに人が密集しているのだ。父は毎朝こんな中を通勤していたのだと知る。感染しなくてよかった。

 父は…… 父は今……

 うつむいたところで車内アナウンスが流れた。駅名を聞きそびれてはいけない。そう思って顔を上げた。

 駅を降りて五分ほど歩いたところにある、都内の総合病院は、郊外の総合病院より、敷地が狭く高層だった。

 正面玄関から入り、総合窓口で名前と要件を告げる。女性職員に、向かうフロアを教えられた。ありがとうございます。そう一声返して、その場を去った。

 教えられた科の、待合室の横にある小さな受付で、再び名前と要件を告げる。応対したのは白衣を着た女性看護師で、番号を印刷されたメモサイズの紙を渡された。

 待合室のベンチに座って待つ。本人は気づいていないが、スマホで時間をつぶすことは頭の片隅にも思い浮かばなかった。渡された紙を見る。「62」と印刷されている。62。62。白い紙に印刷された黒い算用数字がくっきりと頭の中に跡を残す。

 待合室のスピーカが鳴る。

「62番の患者様、診察室三番にお入りください」

 立ち上がって、廊下の壁を見る。進んで右側、手前から三番目の部屋の扉に「診察室③」の張り紙がある。その横引きの扉を開けた。

「失礼します」

 中にいるのは三十代であろう男性医師。中肉中背。裸眼で、聡明そうで、人好きのする顔をしている。

「どうぞおかけになってください」

 医師の手前にある、背もたれのない丸椅子に座る。

「葦名律です。葦名浩二の子です」

 先に名乗った。医師は小さくうなずいた。

「葦名律君ですね。よく来てくれました。お父さんのお兄さん、君のおじさんだね、来てもらうようにお願いしたのだけれど、仕事が忙しくて来られないということでした。だから、今日は君だけに説明しますね」

 そう言った医師は、机の上にあるPCモニタを見ないで語り始める。語ることは全て頭の中に入っているとばかりに。

「君のお父さんの浩二さんは、昨日の十八時過ぎ、仕事で会社の車を運転中、信号を無視した中型トラックと正面衝突しました。お父さんはシートベルトをしていたしエアバッグも作動したから、胴体と頭に大きな損傷はなく、命に別状はありません。ただ、車の正面が大きくつぶれて、運転席も正面から圧迫されました。脚を損傷し……」

 医師は息継ぎなしに告げた。そのはずなのに。次の言葉との間に、自分の今の記憶を全て失うのではないかと感ずるほどの時間があるような気がした。

「歩行に障害が残る怖れがあります」

「父の仕事はどうなるんですか?」

 言って、自分の言葉の冷たさに恐ろしくなった。医師は、人好きのする笑顔をくずさなかった。

「仕事というと?」

 言ってはいけないはずなのに、口が動いた。

「父は営業職で自動車を運転して仕事をしているんです。脚に障害が残ったら、仕事はどうなるんですか」

 医師は、初めて、困った顔をした。

「それを言うのは私の役目ではありません。今は、お父様の回復をサポートし、リハビリを経て機能を回復することに最善を尽くします。お仕事はそれからです」

「最善を尽くすって……」

 言って、自分が嫌いになった。父が苦しんでいるというのに、お金のことしか考えていないのか。これでは父は自分のATMではないか。自分は、こんなに、こんなに、こんなに、どうしようもない人間だったのか……

 それから後は、医師の説明を抗うことなく聞いた。唯々諾々と聞いた。

 高校の六時限目。2年B組の葦名の席は空席。教室では日本史の授業が行われている。

 教室の前の扉が開いた。

 開けたのは葦名だった。

 授業中の教師が扉を見る。

「葦名、いいのか? 今日は休むんじゃないのか?」

 教師が事情を知っていることを、その一言で悟った。

「一人になると、落ち込むので、来ました…… 教室にいて、いいですか……」

 葦名は正面を見られない。うつむきながら、言葉をぼそぼそと口にした。

「そうか。座りなさい」

 教師に是認されたので葦名は自席に向かう。生徒の視線が集まる。授業中だからという理由を抜きにして、声をかける者はいない。

 腫れ物に触る。その言葉の意味を葦名は知った。

 周囲が戸惑いに満ちたまま、六時限目の授業とHRが終わった。生徒がそそくさと教室を去る。

 葦名は、すぐに立ち上がることができなかった。そこに斜め前の神代が声をかけた。

「葦名君に、どうお詫びをしていいのか、私には分かりません」

 マスクの上の目には、罪を犯して償う術を考える様子と、罪を許されたいという望みが、相半ばしている、ように見えた。葦名の目には。

 葦名は当事者だ。そして今では能力がある。怒りを外にぶつけようがないことを知る。

「僕が悪かったんだよ…… 一つでも短歌を作ればよかったんだから…… うちの問題だしね…… 神代さんが謝ることじゃないよ……」

 葦名の目に、神代の目が悲しみを増したように見えた。許されたのに、なぜ?

「そういうことを言わないでください。力を持ち、あの場に居合わせた以上、私は無関係ではないんです」

 その覚悟が、葦名に、重かった。

「大事に……しないで…… その方が……僕は楽だから…… ごめん。嫌な気分にさせたね……」

 葦名は学生鞄を持って立ち上がり、歩き出す。

「葦名君!」

 後ろで神代が立ち上がる音が聞こえた。葦名は振り返らなかった。神代は後を追えなかった。

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