4-3 父の後を追えないことを知った

 そのとき葦名は神代の名前を思いだした。

 神代結歌(こうじろ ゆうか)。それが彼女の本名だ。

 よく見れば「ゆう」は訓読みで「か」は音読みで湯桶読み。それでもそう読ませれば一般的な女子の名前になるので、そう名付けたのだろう。

 短歌を作ればそれが現実になってしまう力を持つ父が、生まれたばかりの娘に、歌を結べと名を刻んだのだ。まるで、娘の人生の使命を、親が決めてしまったかのように。

 これは重いぞ。葦名には嫌な予感がした。

 葦名が黙っていると、神代がポツポツつぶやき出す。

「力を授かってすぐに、私は大変なことをしたのです……」


 結歌にとって、父は自慢だった。家族の他には言うな。そう口止めされていたけれども。

 十三歳までの誕生日のことを、よく覚えている。

 六月の梅雨空を窓の外に見ながら、床の間で向かい合う父と結歌。父は着物で、結歌はかわいらしい女の子のお洋服を着て、二人とも座布団の上に正座。

 十三歳の誕生日はワンピースを着ていた。姿勢良く黙って待つ結歌に、父はこう告げた。


 言葉とははるかな意味を抱くもの

  すべて読み解き手に入れるかな


「お父様、ありがとうございます」

 結歌は畳に両手をつき頭を下げて、ただ礼だけを述べた。その場でそれ以上しゃべることは許されなかった。

 お父様は以前より常々、私は神様と約束ができる、と結歌に言っていた。お母さんに語るときには「神」と短く言ったり「聞き届けられる」と難しく言っていたけれど、結歌に語るときは「神様」や「約束」など幼い娘に分かりやすい言葉を選んでいた。

 その約束は果たされた。

 七月に入って行われた中学一年の期末試験で、結歌は現代文で百点を取った。彼女が通っていたのは入試が必要な私立中学だったが、満点を取る生徒はそうはいない。

「ねえ、どうやって勉強してるの?」

「神代さん、すごいよね」

 級友が賞賛するが、結歌は、言葉を現実にする父の力が成したことだと分かっていた。そんな父を持ったことがうれしく、自分が、少し、情けなかった。

 十四歳の誕生日。

 白いブラウスと紺のスカートを身につけ、座布団の上に正座し、父を待った。

 ふすまを開けて入ってきた父は、座布団に座ると、いつものように待たせることなく、結歌に語り出した。

「今日は大事な話がある。私が持つ、神様と約束を交わす力を、結歌にも授けよう」

 結歌は驚き、目を見開くが、ぽっかり口を開けてしまわないように口を強く結んだ。

「結歌、こちらに来なさい」

 父は、言葉だけで、身体を動かすことなく、結歌に呼びかけた。結歌は、立ち上がり、言われるがままに父の元へと寄った。

「座りなさい」

 結歌は言葉の通りに父の眼前に座った。

 父が右手を上げ、手のひらを大きく開き結歌の額に当てたところで、結歌の視界が暗転した。

 目を開けると、結歌の身体は右方向に倒れていて、右頬に畳の感触があった。そして世界がそれまでと少し違って見えた。

 結歌は身体を起こしつつ父を見た。

「これで結歌も私と同じ力を授かったのだ」

 父が告げる言葉を聞き、結歌は、自分がようやく一人前になれた気がした。

 結歌は父から短歌の詠み方の手ほどきを受けた。

 七月の静かな夜、エアコンが効いた自室に一人でいた結歌は歌を詠んだ。


 父は明日(あす)胡蝶蘭持ち娘見て

  成されたことに笑み浮かべたり


 翌日、家に帰ってきた父は胡蝶蘭を手にしていた。

 その胡蝶蘭を手にしたまま結歌の部屋の扉をノックした。結歌が扉を開けると父は、中に入ることなく、右手に提げた胡蝶蘭を結歌が見やすい高さに持ち上げた。

「今日、お客様から、これをお土産にいただいた。いつもはぶっきらぼうな方なのだが。もしかして、これは結歌の仕業か?」

 まったく無関係に見える人間を動かせることを、お互いが認識していた。

「そうです、お父様」

 結歌が答えると、父は胡蝶蘭を下ろした。

「力の使い方は分かったようだが、他人様に負担をかけるんじゃないぞ」

 言葉は咎めていたが、父の顔はほころんでいた。

 結歌は、自分は父の後を追うことができるのだと確信した。

 結歌は学業成績はよかったが、おとなしかったからか、中学校では立場が弱かった。

 実は、二年生になった四月から、学校内で悪い噂を流されていた。家庭教師に試験の想定問題を作ってもらっているとか、頭が悪い男子とつきあうつもりがないから彼氏がいないとか。それらは根も葉もなかったが、面白おかしかったので生徒の間でよく広まった。

 結歌はじっと黙っていた。しかし六月の誕生日から、自分が他人とは違う存在であることに気づいていた。

 九月のある日。HRを終えて、結歌が荷物を学生鞄に詰めて帰ろうとしているときだった。結歌の後ろで、学級内で仲間が多いスクールカースト上位の女子が、結歌に聞こえるのが分かっていながら言った。

「学年トップを争う人は馬鹿なんか相手にしないで帰っちゃうんだもんね」

 三人の女子が同調して笑った。

 結歌は振り向いて四人を見た。そのとき、一つの歌が頭に浮かんだ。その歌を口にした。


 右腕の骨を半ばで蹴り折られ

  動きもできず泣きじゃくるなり


 口にした直後、自分は神に成り代わった気がした。頭の中で歌を反芻して、自分が罪を犯したことを知った。結歌は口を押さえた。

「あんた、何言ってんの?」

 歌の内容はヤジを飛ばした女子にも理解されていた。厳しい言葉と反感が結歌を襲った。

 結歌は学生鞄を抱えて逃げ出してしまった。

 翌日、ヤジを飛ばした女子は休んだ。翌々日に現れたとき、右手にギプスを嵌めていた。

「神代さん、私が右腕を骨折すればいいと言ったのよ」

 被害者の訴えは瞬く間に広がった。証人もいたのだ。結歌には反論できなかった。

 結歌は学校内で孤立した。

 数日思い悩んだ結歌は、家族揃っての夕食を終えた後に父に呼びかけた。

「お父様、お話があるのです」

 結歌の暗そうな顔を見た父は、「分かった」と答えた。

 二人は床の間で正座して向かい合った。

「何だね?」

 結歌は生唾を飲んでから打ち明けた。

「学校で、私を悪く言う女子生徒がいるのですが、私は、歌を使ってその子の右腕を骨折させました。神様と約束して得た力を、このようなことに使って、私にはどのような罰が当たるのでしょうか?」

 父の顔は穏やかだった。成した罪に対してあまりに軽く、結歌は不吉なものを覚えた。

 父は静かに諭した。

「私たちの力は神に許されたものだ。悪魔のように力の代償を求めはしない。力を使ったことに、罰は当たらないのだよ。自分の責任で使えばいい」

 事も無げに言う父が、結歌には恐ろしかった。膝が震えた。

 それから結歌は歌を詠むことをやめた。

 年も暮れる時期になった。家に帰ってきた父は居間にいる結歌を見ると、立ったまま結歌に問うた。

「最近、歌を詠んでないな?」

 結歌は居間でも正座しており、父に問われてうつむいた。

「いただいた力を、どのように使っていいのか、分かりません」

「何のために力を授けたか、分からんな」

 父は吐き捨て、立ち去った。

 結歌は、父の後を追えないことを知った。

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