8-13 彼女の姿は、卑屈に小さくもなく、尊大に大きくもなく

 翌朝。

 葦名律は、世界から切り離されるのが怖くなって、テレビの電源を入れた。日付を確認し、カレンダーを見て、今日が水曜日であることを知る。自分は世界の中にいる。そのことを思いだした。

 高校に向かう道の途中、つい視線が下を向いてしまう。思いだしたように前を見ると、昨日までと変わらない、同じ高校の生徒達が見える。変わらないのか。葦名律は、半分うれしく、半分悲しい。変わってしまったことを知っているのは、自分だけ。他人に気取られていなければいいと思う。

 教室に入ったとき、先に教室に来ていた神代の顔が、葦名の顔を見て少し暗くなった。昨日の今日、悲惨なことがあった。自分の身を案じてくれているのかと葦名は感じた。だが、今の葦名の懸念はちょっと違うのだ。

「神代さん、今日の放課後、二人で話したいんだけど、いいかな」

 すれ違い様に葦名が声をかけると、神代は無言で顔を上げた。マスクの上の見開かれた目を見れば、声も出ない、というのが葦名にも分かる。

「父さんのことを責める気はないよ。もっと別の話があるから」

 葦名が念を押すようにうなずくと、神代もこくっとうなずいた。

 その日の授業中、葦名はぼんやりしていた。見かけ上はそうだったろう。頭の中が、同じところをぐるぐると回っていたから。自分はまだいい。彼女はどう思うか。

 終業のHRが終わって、葦名は後ろから神代に声をかける。

「神代さん。この前の公園でいい?」

 神代は振り向く。

「いいですよ」

 同意を得ると葦名は立ち上がって教室の外へと向かう。その後を神代が追う。今度は葦名が前だ。

 先日と同じようにしばらく歩き、何の遊具もない、コンクリートベンチが一つあるだけの児童公園に着く。先日と同じように、公園の中央を向いて、神代がコンクリートベンチの右側、葦名が左側に座る。

 どう話したものか。葦名は考えあぐねる。

「話は、何ですか?」

 気づけば神代が自分の顔をのぞき込んでいた。先に問われて、どうにかして言葉を口にせざるを得なくなる。葦名は左手で頭を掻きながら口を開く。

「あの…… 話はね…… 神代さんのお父さんがもらって、神代さんのお兄さんと神代さんに与えて、僕がもらった力のことなんだけどね…… 多分……いや、僕の中では確信で、信じてもらえなかったら困るんだけど……あれは……僕たちが作った短歌を神様が聞いてくれるわけではないんだ」

 葦名は右にいる神代を見る。神代の目が冷たくなる。

「どうしてそんなことを言うんですか。つい最近力を授かった葦名君になにが分かるんですか」

 神代の声は、少し、葦名を責めている。

 葦名は、頭を掻いていた左手を下ろした。ここで引いてはいけない。胸の内で、脚を踏ん張る姿を思い浮かべる。

「しばらく、黙って僕の話を聞いて欲しいんだ」

 葦名の問いかけに神代は何も言わない。

 黙って聞いてもらえる。そう、葦名は受け取った。

「僕は昨日、短歌を作ろうとしたんだ。最初は、父さんの怪我が治って再就職も上手くいくように。でも、神様に聞いてもらえる条件の短歌を作れなかった。あきらめた僕は、次に、新型コロナウイルスを無くすことを思いついたんだ。その短歌も作れなかった。それでね、考えた、というか、気づいたんだ。僕たちが作った短歌を神様が聞いてくれるわけではない。僕たちが力を与えた何者かは、未来になにが起きるのかを知っていて、その内容を、僕たちの頭をいじってしゃべらせている。僕たちは、頭をその何者かにコントロールされていて、未来に起きる出来事の短歌しか作れなくなってるんだ。未来に起きない出来事の短歌は、作れないんだよ」

 葦名は、考えを口にしている間、神代の目を見ていた。神代の目がつり上がっていくのを見ていた。それでも、考えを口にした。

 目の前には、目をつり上げた神代がいる。

「それって、葦名君の勝手じゃないですか。自分が歌を詠む才がないからと言って、神様に責任を押しつけるんですか?」

 神代が葦名をなじる言葉は、葦名は事前に考えていたことの一つ。だから返答はためらいなく言える。

「だったら、今すぐ、宝くじで一億円当てる短歌を作ってみて?」

 神代の目のまわりが赤みを帯びるのが分かる。つまり血が上っている。

「神様から授かった力をそんなゲスなことに使う気ですか! 神様が何と思うか!」

「でも、力を使ったことの罰はない、自分で責任を負うだけだ。そう、神代さんのお父さんは言ったんだよね? だったら神様は許してくれるよ」

 神代の目が左右に揺れる。そして正面で止まる。

「いいでしょう。作りますよ」

 神代は葦名から目を逸らして正面を向き、じっと考え込む。一分、無言で時間が過ぎる。神代は頭を抱える。二分。三分。次第に神代は背中を丸め、両手で抱えた頭を下に向け、じっと地面を見る。葦名は計っていなかったが、神代が顔を上げたとき六分が経過していた。

「作れません……」

 神代の声は脱力している。再び葦名を見る神代の目には力が無い。

 葦名はコクリと頷く。

「そう。未来で起きないことの短歌は作れないんだ。短歌を作ったから未来が変わったんじゃない。これから起きるはずの未来を言わされているだけなんだよ」

 神代が首を左右に振る。

「でも、お父様は、懇意にしている方々に福をもたらして、神代家はその報酬で生活できているのです。福をもたらす力が無ければ、そのようなことはできないはずです」

 葦名は首を小さく左右に振った。

「神代さんのお父さんは、今の仕事を始める前、銀行で企業向け融資の仕事をしていたって言ってたよね? うちのお父さんが言ったよ、どういう人が成功して、どういう人が転落するか、いろんな人を見て知ったはずだって。神代さんのお父さんは、相手が成功する人かどうかを見極めて、成功する人だけをお客様に選んできたんだ。僕は、そう思う。そんなひどい力を神代さんのお父さんに与えたのが何者なのか。神様とは限らない。もしかしたら、もっと悪いもの。例えば悪魔かもしれない。僕は、そう思う」

 神代がうなだれる。

「葦名君がお父様の心配をするなら、私がお父様の心配をすることも分かってくれるはずです。自分の父が他人にたかる寄生虫だなんて、そんな話、受け入れられませんよ……」

 葦名は、頭を、自分の膝につくくらい下げる。

「ごめんなさい。僕が馬鹿で失礼だったね」

 神代はふうと息をつき、空を見上げる。

 葦名は頭を上げ、隣に座る神代を見つめる。

 神代は、近くを見ているのか、空の果てを見ているのか、黙ってなにかを見ていた。

 そして視線を水平に戻す。

「さっき私はああ言いましたけど、葦名君が言うこと、なんとなく納得できるんです。今から思えば、そうだったんだな、と。思っていることを話してくれて、ありがとうございます」

 感謝の言葉に、葦名は無言で首肯した。

「もっと詳しい話はありませんか?」

 神代は左を向いて葦名に問うた。葦名は、用意していたネタを出し切っていて、持ち合わせがない。

「いいや、これ以上はないよ」

 神代は学生鞄の取っ手を握りしめる。

「でしたら、今日はこれくらいでいいですか?」

「うん、いいよ」

 葦名の返事を聞き届け、神代は立ち上がる。

「今日は大切な話をありがとうございました。また明日、お会いしましょう」

 立って頭を下げる神代に、葦名は座ったまま頭を下げた。

 立ち去る神代の姿を、葦名はコンクリートベンチに座ったまま見ていた。彼女の姿は、卑屈に小さくもなく、尊大に大きくもなく、普通に女の子一人の姿で……

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