8-12 自分にはそんなに力が無いのか

 葦名は、今日は帰宅途中にスーパーに寄らない。昨日の回鍋肉が残っている。二人分作って、父に食べてもらえなかった一人分が。

 家に帰って、回鍋肉をレンチンして食べた。食器を片付けた後、テレビの電源を入れた。画面の中ではひな壇芸人のおバカなはしゃぎ声。いらだつ。いらだつ。それでも無音が耐えられない。居間を音で満たすために、テレビをつけっぱなしにした。

 しばらく経ったところで、スマホから。

 ピロロン。ピロロン。

 葦名はけだるくスマホを手に取った。時刻が十八時四十六分になっていることに今気づいた。

 着信画面はメッセージアプリのビデオ通話。相手の名前は、葦名浩二。

 葦名律は我に返る。

 向こうにいるのは誰だ。スマホは父のもの。発信ボタンを押したのは、誰だ?

 葦名律は、唾を飲みこんで、「応答」ボタンを押す。

 画面に見えたのは、父の微笑み。顔に怪我はない。いつもの父の顔。

 肩から下は、薄い青の、入院患者の服。父の後ろに、父の名前を入れたネームプレートと、病院のベッド特有のコンセント・ジャック類が見える。

「律、元気か?」

 父の声は明るい。

 律は目をしばたかせる。

「僕に向かって元気かって聞いてる場合じゃないよ」

 父は申し訳なさそうに。

「先生から話を聞いたそうだな。父さん、車を運転中に事故に遭って、しばらく入院することになった。コロナが流行ってるから、面会はできない。たまにこうやって電話するから、顔を見せてくれ」

 父は申し訳ないことなどしていない。詫びるのは律の方だ。

「ごめんなさい。父さん。僕が悪かったよ」

 律の目から涙がこぼれた。

 父がきょとんとした顔をする。

「どうして律が責任を感じるんだ? 律がなにかしたわけじゃないんだろ?」

 父の言葉に、律は自分と父の間の断絶を認識する。律は父に言っていない。父が「変な影響されるじゃないぞ」と釘を刺した相手と深く関わったこと。世にも不思議な力をもらったこと。にもかかわらず、他人の悪意を防げなかったこと。

 父に打ち明けることなど、できるわけない。危害を与えた相手に、赦しを請うなど、何と浅ましいことか。

「そうだね…… 僕のせいじゃないね……」

 父の言葉を肯定するべく無罪を認めるのに、目から涙が止まらない。左手の甲で両目を拭う。涙目の向こうに、父のうろたえる顔が見える。

「律、泣くな。男だろうが。こういうときはしっかり構えるもんだ」

「うん、そうだね」

 律はうなずく。そして再び左手の甲で両目を拭う。

 それから父としばらく話をした。ビデオ通話を終えた後、思いだして、テレビの電源を切って、一人になった。

 律はつらつら考える。

 自分に力があるのに、父に重い傷を負わせてしまった。申し訳ない。

 しかし。彼は気づいた。

 これからの回復は自分に任されている。後遺症を残さない回復。再就職。それらの福を招き寄せる力が自分にはある。

 そう。これから短歌を詠めばいい。

 時間はある。四分十一秒以内に詠まなければいけない制限はない。

 律は、そうだ、と心を決めた。

 彼は頭の中で考えた。そして一首を決めた。


 父はまたその両足で歩き出す

  すぐに見つけし次の職場に

 (句の先頭:タ行の『い』、サ行の『お』、ア行の『あ』、

       サ行の『う』、タ行の『う』)

 

 これでいいのだ。律の心に安堵が広がった。

 なんだ、簡単なことだ。そう思ったとき、気づいた。「その」と「すぐに」がサ行で被っていること。「すぐに」と「次の」が「う」の音で被っていること。

 律の心は暗転する。あのときと同じ過ちを繰り返すのか。

 彼は、自分が座っている家具調コタツの上に学生鞄からノートを広げる。何の授業のノートかなんて関係ない。何より大事なもののために使うのだから。

 彼はノートにシャープペンシルで文字を書いては訂正線を入れる。

 そして…… 行き詰まった。

 彼は短歌を口にする。死んだ子を葬るように。


 父の脚治りて息子と帰宅する

  翌朝からは営業開始

 (句の先頭:タ行の『い』、マ行の『う』、カ行の『い』、

       ヤ行の『お』、ア行の『え』)

 

 これは「父の」と「帰宅する」が「い」の音で被っている。そして、置き換える別の言葉をどうしても思いつかない。

 律は後ろに倒れて天を仰いだ。アパートの居間だったから白い天井とLEDランプしか目に入らなかった。

 自分にはそんなに力が無いのか。たった三十一音の短歌を詠む力が。

 力を自由に使えたらよかったのに。なんでも思い通りにできたのに。

 自分の矮小さに打ちのめされて、左にごろんと横になり、カーペットの毛羽立ちを見る。スリスリと手で撫でる。こんな小さな世界で、こんな小さなものに触れることしかできない自分を知る。

 そのとき、天啓が下りたと思った。

 短歌で何もかも叶うのであれば、新型コロナウイルス感染症を止められるのではないか。

 彼は夢想する。

 ある日突然、新型コロナウイルスが地上から消滅する。

 いくらPCR検査してもウイルスの遺伝子は発見されない。入院していた患者は次第に回復し社会復帰する。

 世界は喜びに満ちた驚きに包まれる。医師は説明できず冷や汗をかく。神の御業と主張する宗教団体がいくつも立ち上がる。

 好きに言ってろ。真相を知っているのは自分だけだ。

 そんな夢が、打ちひしがれた律の胸に広がる。

 こうしてはいられない。彼は起き上がりシャープペンシルを握り、ノートに書きつける。

 そして……

 彼は死んだ子を葬った。


 夜が明けて新型コロナ消滅す

  愛(め)でて迎えん、新しき世を

 (句の先頭:ヤ行の『お』、サ行の『い』、サ行の『い』、

       マ行の『え』、ア行の『あ』)

 

 これは「新型コロナ」と「消滅す」が「し」で被っている。

 律は大きく息を吐いた。

 なにもできない。自分には、なにもできない。

 彼は自分を疑う。もらった力を使いこなすだけの器が自分にはないのか。神代の父のように他人を富ませることはできないのか。神代の兄のように天罰のごとき力を振るう器ではないのか。

 出来損なった短歌をじっと見た。

 すると。

 自分は考えすぎたのかもしれない。最初、そう思った。しかし、ある映像が脳裏に浮かんで、消えなくなった。

 律は立ち上がり、台所に入った。ゴミ置き場から古新聞紙を、冷蔵庫から生卵一つを取り出した。古新聞紙を三枚重ねでシンクに敷く。シンクの上で、生卵を持った右手を頭上に挙げて、生卵を離す。

 ガシャン。

 生卵はシンクの底にぶつかり、古新聞紙の上で白身と黄身を漏れ出させる。壊れて、中身が次第に周囲に広がっていく。

 しかし、律の脳裏には、漏れ出した中身が集まり、殻が塞がり、生卵が上に持ち上がって律の右手に戻っていく映像がしっかりと映し出されていた。

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