8-7 僕は早く見極めたいね
神代結歌が家に帰ったとき、父と兄の二人はまだ帰っていなかった。夕食は二人が帰ってくるまで待った。
夕食を終えた後の契と結歌が、自室がある二階へと上がる。
階段を上りきったところで前を歩いていた契が振り向く。
「結歌。この前お父様が力を授けた、葦名君と言ったか、彼はどんな様子なんだ?」
問われた結歌は葦名のことを思い出す。学校で見せる笑顔。彼の母の墓前で見せた世界への怨恨。その後に現れた、足掻く意思。
「面白い人です。じっとしていられない人で、力を授かったら、それも使わないでいられないみたいです。でも他人に悪いようにする意思が全然無くて。あの人が何をするのか、もう少し見ていてもいいと思うんです」
最後の言葉は儀礼でない。彼の成すことをもっと見たい。結歌はそう思うようになっていた。
見ると契の顔は微笑んでいる。そのはずなのに、結歌には契の感情が感じられない。表情と情感の不一致が結歌の心を冷たくする。
契は穏やかに言う。
「見ていてもいい、か。僕は早く見極めたいね。お父様が一見で力を差し上げた相手だ。早いうちに見極めないと厄災を招くかもしれない」
結歌の心臓が冷える。
「見極めるとか……厄災を招くとか…… 契兄様は何をお考えですか?」
契は明らかな笑みを作る。
「まあ、そのうちにね」
契はそう言い残して、前を向くと自室に入った。
結歌は少しの間、契が入っていった部屋の扉を見つめていた。
翌日、週明けの月曜日。葦名のスマホには、神代から短歌を詠んではいけない時間帯を伝えるメッセージが届いていた。彼は無言でホーム画面に戻した。
高校の教室に入ったとき、今日も先に登校していた神代は、葦名を見ると軽く会釈をした。葦名は、会釈し返すと、神代の左斜め後ろにある自席に向かう。
「葦名君、おはようございます」
「神代さん、おはよう。今日は無理しないから」
葦名の一言に神代は驚き、振り返る。神代の斜め後ろで自席に座った葦名は一言。
「無理に短歌を詠むのは止めるよ。ちょっと迷ってるし」
神代は小さくうなずく。
「それがいいと思います」
そして神代は前を向いた。その後、二人は何も言わなかった。
それなのに、だ。
昼休み。自席で弁当を食べている葦名は、目の前でスマホに手を伸ばす神代を見た。彼女は画面を見ると顔をこわばらせ、葦名の顔をチラと見た。
「なに?」
神代は葦名からの問いに答えずスマホを学生鞄にしまう。そして何も言わない。ただ、周囲を見ず内にこもるような。葦名はそれ以上追求するのを避けた。午後の授業中も神代は挙動不審で、葦名にとって空気が重い。
終業のHRが終わった。神代のことは気になるが、深く突っ込むのも何か怖い。葦名がいつもとは違って教室の後ろの扉から出ようと立ち上がったとき。
「葦名君」
「なに?」
背中の方から、座っている神代に呼びかけられた。葦名が振り返る。神代は震えているように見える。彼女は葦名の声に少しの間反応できなかったが、きちんと自分の口で言った。
「この後、私についてきてもらえませんか。会っていただきたい人が……私の兄が、高校に来てると言うんです」
「神代さんのお兄さん?」
葦名の声が裏返る。神代は無言でコクリと首を縦に振った。
葦名は神代家にお邪魔したときに一瞬だけ会った、神代の兄を思い出す。ケイ兄様と言ったか。育ちが良さそうだけれど、自分の父を客より優先させる態度がちょっと気に障った。急になんだろう。葦名は神代の兄の意図をいぶかる。
「いいけど……」
けど、と付けたり、語尾を濁したり。嫌々であることが返事に少し漏れ出てしまった。
それでも神代は文句を言わず、というか無言で、立ち上がると教室の前の扉に向かって歩き出した。葦名も無言でついていく。
廊下を通り、昇降口で下履きに履き替え、学校の門まで歩く間、神代は何も言わなかった。そして足取りは硬かった。なんだろうこれは、と葦名が考えると、神代の父に見せた態度に似てることに気づく。男性が怖いのだろうか。それにしては葦名に対して気負わず話しかける。
神代の父と兄の間に共通項があるとしたら。そう考えると、葦名には嫌な予感がする。
学校の門を出たところで、高校生が帰っていく歩道の端に、少し年上の私服青年を見つけた。葦名は顔を思い出す。ケイ兄様だ。薄い緑でモノトーンな、糊のきいたシャツ。テカリがなく黒が沈む折り目正しいスラックス。縫製のたしかなスニーカー。取り立てて欠点がない、つまり隅々まで行き届いた身なりをしていた。そして右手にスマホを持ち親指を始終動かしている。暇を潰しているのだろう。
「契兄様、葦名君を連れてきました」
青年の二メートル手前に来たところで神代結歌は呼びかける。声は少し途切れ途切れ。
青年はスマホをスラックスの右ポケットに入れると顔を上げた。ポスターのようなスマイル。
「結歌、ご苦労だったね」
ご苦労、という言葉に、葦名は青年の気位の高さを感じた。これは礼を失すると愚痴られる。
「葦名律です。この前お目にかかりましたね」
葦名は機先を制して腰を折って頭を下げる。ケイ兄様は軽く会釈する。
「あのときはどうも。あなたにはもう一度会いたいと思っていたのですよ」
その、会いたいと思っていた相手から一瞬で視線を逸らすと、神代結歌を見た。
「立ち話もなんだし、落ち着ける場所に行こう。ついておいで」
「はい、契兄様」
フランクに話しかけたケイ兄様に、神代結歌は恭しく答える。
二人には明らかな態度の違いがあるのだが、両人とも気にしている様子がなく自然だ。ということは、この関係が日常的なのだろう。葦名はそう理解した。
高校から商業施設が多い地区への道を、ケイ兄様を先頭に、神代結歌、葦名、の順で縦に並んで歩く。ケイ兄様はリラックスしている。神代結歌の足取りは硬い。葦名は、自分の表情を自分で見られないことから、敵対的な表情をしていなければいいと願い、一番後ろを歩いていることに安堵する。
それでも、言葉のジャブを打ちたくなった。
「こういう時間に高校に迎えに来るって、大学の授業はどうしてるんですか?」
前をゆく二人のうち、先に神代結歌の肩がピクリと震えた。そのことは素直に悪いと思った。
「大学生は意外と暇なんだよ。『授業』じゃなくて『講義』って言う。三年生になると、翌年の研究室所属に必要な単位が揃うと出席する必要が無い講義が増えてね、日中に暇ができるんだよ」
ケイ兄様は軽く笑う。
「そんなものですか」
「そんなものだよ」
葦名が問い返してもケイ兄様は軽くあしらう。そして神代結歌は何も喋らなかった。
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