8-6 あんなに汚いところを見せたのに、胸の奥が今までより少し軽い
葦名の独り言を聞いた神代は、一つ息を整えてから言葉を発する。
「大変だったんですね」
「神代さんはずるいよ」
神代が理解を示したはずが、葦名が返したのは誹り。今の彼が見せる鋭い目を、神代は高校で見たことがない。
「ずるいって、どうしてですか」
「神様と約束できたらさぁ、母さんは死ななかったんじゃないの?」
神代は息が止まった気がした。当然、言葉など出ない。
葦名は、神代ではなく、葦名家代々之墓と記された墓石をじっと見ている。
「せっかく自分の思い通りにできる力があるのにさぁ、トラウマがあるから使えない? そんな甘えてるんじゃないよ。どんどん使えばいいんだ。みんなもみんなだよ。コロナが怖い? 今も感染症で人がどんどん死んでるんだよ。人類が感染症を克服したなんて大嘘なんだよ。母さんが亡くなったときは、どうして僕の母さんだけが? って思ったよ。 その後にコロナが広まって、世の中大騒ぎになって。分かったか! ざまあみろ! これでみんな同じだ。世の中公平だって分かったよ」
葦名は声を張り上げていた。今の世の中で絶対に他人に聞かれてはいけない誹謗が墓地に響き渡る。墓地には二人の他に誰もおらず、ヘドロまみれの言葉が周囲に投げ出され風に吹かれて消えていく。
神代は、もう一つ大きな息をして、葦名をしかと見据えて言葉を発した。
「不幸な人が、不幸を認めたくなくて他人に親切にすると、親切にされた人は幸せにならないらしいですよ」
葦名の口が止まる。ゆっくりと顔を神代に向ける。
「不幸? 僕が?」
「自分でそう言ったじゃないですか」
神代は力を込めて言い切る。
葦名の視線が神代に読み取れなくなる。彼の目が次第に潤んでいく。そして嗚咽を上げ始める。彼はその場にしゃがみ込み、グズグズと数分泣いた。嗚咽も空気に溶けていった。
葦名の嗚咽が弱くなったところで、神代はしゃがみ込み視線を葦名に合わせて顔をのぞき込む。
「葦名君がどんな気持ちだったか、今、分かりました。正直に言うと、『幻滅』という言葉はこういうときに使うんだなって。そう思います」
葦名が嗚咽を止める。隣にいる神代の顔を見る。
「やっぱり幻だった?」
「自分でも分かってたんですね」
神代は葦名と顔を合わせる。
「葦名君が、他人が幸せになるための歌を、頼まれることも感謝されることもなく詠んでいるのを見て、神様と約束できる私が言うのは変ですけど、神様みたいだって思ったんです。でも、普通に人間で、かなり汚いところもあるって、現実が見えました」
葦名は右手の上腕で目を拭う。
「これが僕の現実かぁ。情けないなぁ」
「気楽に考えればいいという言葉、葦名君に返します」
葦名はうなだれる。一つヒックとこみ上げて、黙り込む。今度の沈黙を追い出したのは神代だった。
「私に親切にしたの、自分が幸せだと思いたいからですか?」
葦名は首を横に振る。
「それもあるけど、何もしなかったらかえって疲れるもん」
「疲れる?」
神代から疑念が漏れた。葦名は、情けないけど、すがるような気持ちで釈明する。
「毎日、お腹は空くし、じっとしてたらかえって疲れるでしょ。だからご飯も作るし散歩にも行く。神代さんがつらいって自分で言うから、なにかしようと思ったのも、放置してるだけだとかえって疲れるから」
「不幸から逃げてませんか?」
「逃げるというか、まだ生きてるんだもん。生きてるんだから、ご飯を食べて、体力を作って、人と仲良くして、明日もきちんと生きられるようにする。それをやめる気ないよ」
葦名の言葉を聞いた神代が目を見開く。
「葦名君のこと、見かけ倒しだと思いましたけど、実はかなりの人なんじゃないかって思い直しました」
「ハリボテでもいいからきちんと作って生きられる場所を確保したいんだよ」
神代が小さくうなずく。
「それが出来ない人が多いんです。私はできませんでした。短歌を詠めなかった三年間、どうしてこんな力をもらったんだって恨んでばかりで、前に進めなかったですから。葦名君はきちんと足掻いたんですね」
葦名が神代を見ると、彼女はその大きな目で葦名の目を捉えている。
「今日墓参したのは、お母さんのことを思いだしたからですか?」
神代に問われ、葦名はため息を一つついた。そして再び右手の袖で目を拭った。彼は前を向いたままポツリと一言。
「日曜日は毎週来てる。母さんが亡くなってから、ずっと」
神代はうなずく。
「こう言うのは失礼ですけど、そこまで慕えるお母さんを持てたことは幸せだったと思うんです。うらやましいです。そんなお母さんを亡くされたことは不幸だと思います」
葦名は神代の顔を見られない。
「マザコンって笑わない?」
「今は、まだ、いいんじゃないんでしょうか」
「今は。か」
葦名はうなだれる。
引きずられるように神代もうなだれる。
「私の家は、みんなバラバラですから。お父様も、母さんも、兄も。私も」
「そんなことないんじゃない。生きてるんだから話し合えば……」
慰めようとした葦名の言葉が途切れた。数秒沈黙する。
「ごめん。前に家にお邪魔したけど、そんな様子じゃなかったね……」
「そうなんです……」
謝った葦名を見て、神代はふうと息をついた。
「お父様がおっしゃることを疑わなかったことに、葦名君が指摘するまで気づきませんでした。母さんは力を授かっていなくて、力を授かっている私におびえています。兄とは、どうでしょう…… 私も、壁を作っているのでしょうか。本当に、それぞれの見ているものが違って。もっと他のやり方があったのでしょうか。葦名君はお母さんを亡くされて不幸なはずなのに、家族が元気な私が、葦名君をうらやましいって思ってしまうんです」
「仲良くして欲しいって、短歌を詠まなかったの?」
問われた神代は首を横に振る。
「できることは分かっていました。でも、ワガママを通り越して浅ましいというか。特にお母さんは自分が力を持っていないからおびえているんです。私が力でお母さんの態度を変えさせたら、お母さんが怖れていたのは正しかったことになります。そんなことできません」
葦名がうなだれる。
「力があるからって、バンバン使うのも考え物か……」
「そうなんです。どう使っていいのか、悩むものなんです」
そして二人は沈黙する。
静かだ。墓地の脇の道を走る自動車の走行音が聞こえてくる。何も無いのだけれど、葦名と神代の二人、同じ立場で、同じ目線で、並んでいる。九月の暑い中、互いの息遣いと体温を感じる。
葦名が、人が隣にいることに満足した頃、神代は立ち上がった。
「今日はありがとうございました。大変な話を明かしてくれたことも、私の愚痴を聞いてくれたことも。最後にもう一度、葦名君のお母さんに手を合わせて帰ります」
神代は手を合わせてしばし目をつぶる。
葦名も立ち上がって手を合わせる。
一分近く手を合わせた後、二人は挨拶をして別れた。
帰り道。葦名は気づく。
あんなに汚いところを見せたのに、胸の奥が今までより少し軽い。
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