8-5 同じ影が世界を覆っていった
葦名は待つことにした。しかし都合のいいベンチなど無いし、墓の縁石に座るのもはばかられる。彼は自家の墓の前にしゃがんで、脚がしびれかけたところで立ち上がって伸びをして、その繰り返しで時を過ごした。
三十分ほど過ぎたところで、高校で見慣れた女の子が私服姿で現れた。白というか薄い桜色のワンピース。晩夏よりは春を思わせる出で立ちだが本人が持つ雰囲気には合っている。顔にはやはりマスク。大きく開いた目だけが出ている。
「こっち~」
葦名は神代に向かって手を振る。彼女は葦名に気づいたようで、墓が並ぶ間をジグザグに、なるべく直線になるように進んでくる。葦名の隣に立ったところで、墓石に掘られた、葦名家代々之墓、という文字を読んだ。
「ここですか」
「そう」
「お線香、持ってきました」
神代はポシェットから線香とマッチを取り出すと、マッチで線香に火をつけ、墓石の前にある線香立てに差した。立ったまま手を合わせ、しばし目を閉じる。
目を開けたところで墓石の右脇にある物故者一覧を見た。先頭の夫婦の行に妻の名しか刻まれていない。
奏 享年三十九歳 令和元年十一月没
「最近になくなった方、葦名君のお婆さんじゃないですよね? お名前、何てお読みするのですか?」
「母さん。『かなで』って読む」
神代が疑問形で尋ねたということは、直接に事実に触れてはいけないと遠慮したのだ。だから葦名は力を込めず短く伝えた。
「葦名君、お母さんを亡くしていたのですね。お若いから、事故だったのでしょう? 突然お母さんを亡くされて、悲しかったでしょうね」
「結核」
ケッカク。
その言葉が意味するものが、神代にはしばらく分からなかった。理解に数秒を要した。音に漢字が結びついたところで、神代は目を丸くした。
「二年前ですよね?」
「二年前だよ」
「結核で亡くなるのですか?」
「日本では毎年、結核で約二千人が亡くなってるって知ってる?」
葦名は、言葉に温かみを乗せることができなかった。母の墓を参ってくれた少女に、あなた知らないでしょ、という蔑みを含ませることしかできなかった。神代の、丸く見開いた目に映った葦名の顔は、学校で見たことがない、諦めで満たされた顔だった。
神代はうつむく。
「新型コロナウイルスが流行してから、ネットで、インフルエンザで毎年同じくらいの人が亡くなっていたり、肺炎でもっと多くの人が亡くなっているという記事を読みました。でも、結核でも数千人亡くなっているという話は知りませんでした」
神代はしょげる。二人の間に沈黙が入る。沈黙を追い出すように葦名は言う。
「母さんは、耐性菌に感染した、って説明された。詳しいことは、僕には分からないけど」
葦名の目は、横にいる神代ではなく、前を向いている。しかし神代から見て、どこに焦点を合わせているのか分からない。夢でも見ているかのようだ。葦名は、自分を止められず、語り出す。
「母さん、美人で、年取っても身体が細くて、自慢だった。親戚から、二人並ぶと親子だって分かるけど、それにしても律君の顔はパッとしないねえ、って言われてね。でも、それはね、太ることもできないっていう、生き物としての弱さだったかもしれない……」
葦名律には忘れられない思い出がある。
小学校一年生の律に、母の絵を描いてくる課題が出されたときのこと。
律は日曜日に自宅で、クレヨンを使って母の絵を描いた。
アーモンド型の目、細くも品がいい鼻、シャープな顎、若者と見まごう細い身体。
美しい母の姿をそのまま絵に写したかった。しかし律には画力が無い。画用紙に描かれたのは、幼い子どもが描く、誰を描いたのか見分けがつかない人の形の絵だった。
律の後ろから母が絵をのぞき込んだ。律は不細工に描いたことを怒られるかと思った。
母は一言。
「お父さんいないねえ」
そして母はクレヨンを手に持って父を書き入れてしまった。
律は半べそをかく。
「学校の宿題で、母さんの絵を描かないといけなかったのに……」
「そうだったの? ごめんね」
謝った母は、律が二枚目の絵を描き終わるまで律の前に座っていてくれた。
親だというのに、子どもと一緒に遊んでいるような人だった。
その課題が出された小学校で、年一回ある父母授業参観。
律にとって、その日はハレの日だ。
校内を生徒の母が行き交う。肉付きがよかったり、化粧で顔が真っ白だったり。現実の母親はテレビドラマと違って生活を背負っている現実を感じさせる。そんな中でその女性は、まるでテレビドラマから抜け出てきたような空気をまとっている。学校に現れた異質な存在は生徒の目を集める。
律は、その女性を見かけると駆け足で近寄る。彼が立ち止まったところで女性は前屈みになり彼と目線を合わせる。
「律、来たよ」
周囲の男子生徒がざわめく。
「あれ、葦名の母ちゃん?」
「信じらんねえ」
授業中、律はチラチラと後ろを見る。律の母が手の甲を振って前を向くように伝えても、律は繰り返し母を見る。
「葦名、よそ見をするな!」
教師が律を叱る。学級の皆がどっと笑う。
「律。授業中にキョロキョロしちゃ駄目よ」
家に帰ってから律は母に叱られた。それでも彼は、この母の息子でよかった、と思った。
そんな母は料理も上手だった。律は母の手料理が大好きだった。
ただ、父が会社から帰るのが遅かったときのこと。その日は母がカレーを作っていて、家中にはおいしそうな匂いが満ちている。しかし母は食卓に料理を並べない。律は愚痴る。
「母さん、早く食べたいよう」
「父さんを待たないと駄目!」
このときばかりは母は厳しかった。父がようやく帰ってきてからの夕食で、律は父に恨みがましい目を向けてしまう。しかしカレーはおいしかった。
カレーや鶏の唐揚げだけじゃない。湯豆腐やほうれん草の白和えやきゅうりの酢の物も。母が作る料理は全部好きで、律はよく食べた。その割には律の身体は縦も横も同級生より小さかったけれど。
その自慢の母が時折咳をするようになったのは、律が中学二年生に上がった春のこと。
「大丈夫よ」
母は気丈だった。特に気にかける様子もなかった。律は母の言葉を信じた。
一ヶ月経って、咳が止まらないからと、かかりつけの開業医に診てもらった。
そこから、あれよあれよと話が進んだ。
結核菌に感染しています。そう告げられるまでに三週間かからなかった。
母は入院した。
父と、律自身が、病院で検査を受けた。結果は陰性。
こうして、家は父と律の二人きりになり、母が一人病院で過ごすことになった。
律は母に会いたいが、面会謝絶。
家でふてくされる律に、父が一台のスマホを買ってきた。
機械にさして詳しくない律がどうにかメッセージアプリの使い方を覚えて、ビデオ通話ボタンを押すと、母のスマホに繋がった。画面の向こう側には、入院着姿の母がいた。
「律、元気にしてる?」
「元気だよ。母さんはどう?」
「良くなった気がするんだけどねぇ。お医者さんが厳しくって」
母が気丈なことは変わらなかった。
その頃、葦名家の食卓はスーパーの惣菜と冷凍食品とレトルト食品ばかりになっていた。
これではいけない。そう思った律は、母にビデオ通話で尋ねた。
「母さん、カレーってどうやって作るの?」
「カレーはね……」
律は母の言葉をメモした。メモの通りに作ったはずのカレーは、葦名家の味からちょっと遠かった。まだまだだ。そう思った律は、毎日のように理由をつけては母にビデオ通話をかけて、母のレシピを聞き出していく。そうして葦名家の食卓は次第に以前の彩りを取り戻していった。
それと引き換えに。母の容態は悪化していった。
薬が効かない。主治医からそう聞かされた。母はより厳重な病棟に移された。
次第に顔が細り、声も細くなっていく母。
「また、明日ね。律の声が聞こえないと寂しいわ」
テレビ通話でそう語った母は、次の日からビデオ通話を許可されなかった。
母の声を聞けない日々が二ヶ月続き……
病院から訃報が届いた。
感染するといけない。そう言われて、律は母の死に顔をチラとしか見られなかった。律の自慢だった美しさが半ばまで削れた、やつれた顔だった。母は煙になって天に昇った。
時は令和元年十一月。
この時代に伝染病で亡くなるなんて、律には信じられなかった。
暗い気持ちで令和二年の正月を迎えたとき、中国から奇妙な肺炎のニュースが入った。
その肺炎は世界中に飛び火し、日本にも侵入した。世界は暗くなっていった。
去年の葦名家を覆った影と、同じ影が世界を覆っていった。
そして今に至る。
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