8-4 私も、敬意を払おうと思います

 日曜日。昼下がりの神代家は静かに思える。

 主人の祐介は懇意にしている顧客と話があるとのことで朝に家を出た。息子の契は友達とのつきあいだと言って昼食を食べると家を出た。家には妻の遥と娘の結歌が残された。

 遥は先ほど終えた昼食の洗い物をしている。結歌はその様子を後ろから見ている。服装は薄い桜色のワンピース。父はいつも和装だが、結歌は年頃の女の子らしい可愛げな洋装をしている。しかしだらけた部屋着は神代家では許されない。外に出ても恥ずかしくない身なりを家の中でも装っている。

 結歌は家事をほとんどしない。気づけば十七歳にもなって、ある意味で女の子らしい(それが適切か不適切なのかは、ここでは議論があると触れるにとどめる)料理や洗濯などを覚えないままでいることが少し恥ずかしい。

 何度か、母の遥に「手伝おうか?」と問うたことはある。その度に「しなくていいから。あなたは短歌を作ればいいんだから」と断られてきた。

 家の中のことが課題になる度、そこには母の遥がいた。これからこの家にいる限り、娘の自分が出る幕はないのだろう。結歌はそう思う。

 そんな母のそばにいたくて後ろから見ているのだが、何もしない自分の自己満足ではないかと不安にもなる。心中は複雑だ。

 母の遥は、洗い物をしながら、後ろを見ることなく、娘の結歌に話しかける。

「結歌、最近、楽しそうね」

 経済的に余裕があるので食洗機を買えるはずなのだが、買っておらず、水を流して食器を洗っている。遥は、流水の音に負けないよう、しっかりとした声で話しかけた。楽しそう、と言っている割に、その声が楽しげでないことは結歌も感じていた。だから無邪気に肯定することはためらわれた。

「そう見える?」

 結歌は遠慮がちに答えたので、声が流水の音にかき消されそうだった。

 それでも母は聞き取ったのだろう。次の言葉を、きちんと結歌の言葉を聞き終えたタイミングで発した。

「あなたに味方ができたものね」

 その一言は、今まであなたに味方はいなかったでしょ、と暗示していた。それは、母である自分が娘の味方でないことをも意味しかねない。しかし結歌から見て、母に、そう理解されることをためらう様子は感じ取れない。

 結歌は、流水のノイズが高くなったように感じた。ジャアジャア。ジャアジャア。自分は母の言葉を聞きたくないのか。そう自己嫌悪する。母に自分のことを分かってもらえるだろうか。

「味方とかじゃなくてね……」

「お父様の気持ちは契に向いているわよ」

 母は、はっきりと、結歌の言葉を遮るように告げた。結歌は、次の言葉を継げない。結歌が黙ったところで母は自分の主張を続ける。

「契に比べてあなたは短歌をきちんと詠めない落ちこぼれ。そして私は力をもらっていないから、あなたにはおびえるばかり。周りに誰も味方がいないところに、学校の友達が力をもらって、これで二対二。少なくともお父様と契の二人と互角になった。そう思ってるんでしょ?」

 結歌は母の言葉より流水のノイズの方が心地よいことを自覚する。ジャアジャア。ジャアジャア。いつの間にか作られた敵対関係。敵対する意思がないことを伝えたい。

「お父様と契兄様の敵になるとか、そんなことは考えてないから」

「そう、言うでしょうね」

 言うでしょう、という言葉に母は力を込めていた。

 結歌は、もう、流水のノイズも聞きたくない。黙って台所を後にして自室に引き下がる。

 自分の勉強机に座り、両肘をついて頭を抱える。どうしてこんなことになったのか。

 結歌は、母の言葉が現実を的確に捉えていることを認めざるを得ない。この思いは父にも兄にも相談できない。そして、聞いてくれそうな人は、母が結歌の味方だと決めつけた彼しかいない。

 彼とアドレスを交換したメッセージアプリは、リアルタイムの無料通話も提供している。

 彼と話がしたい。声が聞きたい。

 結歌は「通話」ボタンを押した。


 日曜日の午後、葦名律は墓地にいた。

 目の前には、葦名家代々之墓。

 九月も半ばを過ぎた。しかし近年の九月は暑い。墓石に水をかけるとすぐさま乾いてしまう気がする。逆に彼のTシャツは汗だくだ。

 墓の前に線香を立てて、立ち上がって手を合わせる。額に背中に、汗がしたたり落ちる。

 そのとき、線香やガスライターを入れていたポーチが震えだした。

 スマホもポーチの中に入れていたのだ。マナーモードにしていた。誰かからの電話だと、無視したらまずい。ポーチからスマホを取り出すとメッセージアプリの通話着信画面に「神代結歌」と表示されている。

 墓地で通話するのも何やら気恥ずかしい。すぐにお断りをしようとして「応答」ボタンを押す。

「神代です。今、話したいんです。いいですか?」

 神代は葦名の都合でなく自分の主張を先に切り出した。ここ最近で彼女の振るまいが少しだけ分かった葦名は、強引に行きたいモードか、と勘づく。

 参ったなぁ。そう思う。

 でも、墓地はまずいだろう。

「ごめん。今、ちょっとやめてもらえないかな」

「何か隠してませんか?」

 しまった、裏目に出た。

 と思ったが、もう遅い。彼女が押すときは本当に強い。葦名の汗が、暑さから来る汗から、冷や汗に変わる。

「いや、隠してなんかないから」

「隠してないと言ってるところが怪しいです」

「そうじゃないんだけど……」

 葦名はしばし逡巡したが、本当のことを告げることにした。

「今、墓地にいるんだ。墓地で電話は、失礼でしょ」

 受話器の向こうの神代がしばし黙る。よかった、話が通じた。そう思った。彼女が返事をするまでは。

「そのお墓に、私も参らせていただいていいですか?」

「えっ!!」

 葦名の声は思わず裏返る。墓なんかに興味あるんだろうか。

「どうしてそんな……」

「葦名君が墓を参る人に、私も、敬意を払おうと思います」

 葦名はスマホを持たない左手で頭を押さえる。本当は両手で頭を抱えたいところだ。しかし、これでは埒があかない。この墓地はお寺の裏。諦めるとは真実を知ることだと仏教では教えていたっけ。よく分かった、と葦名は諦めた。

「じゃあ、来てよ。双庵寺(そうあんじ)の裏の墓地にいるから」

「分かりました。今から行きます」

「うん。待ってる」

 受話器の向こうで通話が切れた。

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