6-2 お眼鏡に適わないかもしれないけどね

 二人黙ったまま歩を進めると、住宅街に入り、その並びの中では平均的な大きさの、子どもなら走り回れるくらいの庭と、総二階ではなく張り出した地上階を持つ、和風の家の前の門に着いた。

 神代結歌は門にあるインターホンのボタンを押す。ピンポーン、という音がした後、インターホンのマイクに呼びかける。

「結歌です。帰りました。先日に話をしたように、学校の友達に来てもらっています」

 一秒、二秒、三秒。

「入ってもらってください」

「分かりました」

 インターホンから出た言葉に返事をした神代結歌は門を開ける。

 家の中から返事をしたのが女性の声だったことに葦名は気づいていた。そりゃそうだ。神代結歌の父は最大二時間遅れるという。家で待つのは別人。おそらく母だろう。そう葦名は読んだ。

 神代結歌が横戸の玄関を開けると、無垢の木の上がり框が葦名の目に入った。

 集合住宅の玄関とはまるで違う。

 葦名は、神代結歌がいい家のお嬢様なのではないかと、ようやく考え始める。

 そう言えば、彼女の兄は小学校から大学までずっと私立だといっていた。地元の公立学校に何の疑問も持たず通い続けた自分とは身分が違う。葦名は気後れする。

 玄関を上がったところにはさっぱりとした薄緑のシャツとスカートを身につけた女性が立っている。目が丸いのが神代結歌に似ているが、上背はやや低いように思われた。

 神代結歌は石畳で頭を下げる。

「母さん、帰りました」

 女性は渋々といった様子で自分を納得させるように数回頭を上下させる。

「分かったわ。お友達には上がって待ってもらいなさい」

「はい」

 神代結歌は頭を上げた。

 後ろから見ている葦名は、不思議に思う。

 家に入ってから、神代結歌がより強くおびえているように見える。

 女子が、見知らぬ異性以上に、家にいる母におびえるというのは、なにかおかしい。

 さらには呼び名だ。

 父は「お父様」で、母は「母さん」。

 釣り合いがとれていない。

 なんだこりゃ。

 二人の様子は、葦名にはとても奇妙な物に見える。

 神代結歌は振り向く。

「葦名君、あがって」

「う、うん」

 葦名は返事をして、上がり框に座って靴を脱ぎ始めたものの…… 神代の母からは招かれざる客という様子がありありと出ている。心の中で、神代結歌に、僕はそんなに悪いことをしたのでしょうか? と顔は平静を保ちつつ無言の悪態をつく。

 神代結歌は、玄関のすぐ横のふすまを開ける。

 奥に、四畳半の、外への窓も小さな窓しかない、座卓一つと座椅子三つが置かれた畳部屋が見えた。家に上がってすぐに腰を落ち着けられるのだけれど、家の奥からは隔離されているという空気が漂っている。

 礼を尽くしているようでいない、慇懃無礼とはこのことか。そう思っていると、神代結歌が右腕で部屋の中を指した。

「葦名君、ここで待ってもらえませんか」

 隔離部屋か……

 神代結歌の父は最大で二時間遅れるという。こんな部屋で二時間かぁ……

 いよいよ本気で歓迎されていない。葦名は肩を落とした。

「うん、待ってるよ」

 葦名は平静を装い中に入る。自分でふすまを閉めようとしたら、神代結歌も閉めようとふすまの取っ手に手をかけたところで、二人見合ってしまう。葦名が神代結歌に譲り、神代結歌がふすまを閉めた。

 葦名は一人になって、学生鞄を畳に置き、座椅子の上にあぐらをかいた。しかし独り言は言わない。誰も見ていないからあぐらはかまわないが、何を聞かれているか分からないから独り言は言えない。

 時計を見ないで一人で過ごすと時間が長く感じるから、かなり放置されたように思ったが、実際には数分なのだろうか。

「葦名君、入っていいですか?」

 ふすまの向こうから聞こえたのは神代結歌の声。

 葦名はあぐらを正座に組み替える。

「いいよ」

 葦名の返事を聞いてふすまを開けた神代結歌は、マスクを外しており、薄い水色ブラウスとスカートを着て、お盆を持っていた。お盆の上に、茶托に乗った小さな湯飲みが二つと、白いおまんじゅうを一個乗せた木の皿が二組。神代結歌はふすまを閉めて盆を座卓に乗せると、葦名の向かいに座る。

「母さんから、葦名君が待っている間、相手をするように言われました」

 だから茶菓子と茶が二組あるのか。葦名は事情を見てとる。

 神代結歌が相手をするとはいっても、葦名は彼女をよく知らない。彼女も自分を知らないことが分かっている。

 言葉はポンポンとは出てこない。二人、沈黙する。

 葦名が先にしびれを切らした。

 どんな話をするか。

 当たり障りのない天気の話、とはいかない。

 感じている違和感を、オブラートに包むことを心がけながら。

「神代さん、お母さんに丁寧に話してるけど、お母さん、厳しいの?」

 神代結歌は首を横に振る。

「母さんは礼儀には厳しくない人です。どこにでもいる母親です。ただ、お父様が厳しいので、お父様のお眼鏡に適うように振る舞うのに、少し気を遣っています」

 そう言う神代結歌があまりに従順で、葦名には彼女の母がどこにでもいる人に見えない。

「そうなんだ……」

 相槌を打っただけで、会話が途切れています。

 しばらく、とてもしばらく、二人黙ったまま待った。時計を見るのは失礼だから、今何時かよく分からない。

 ふすまの奥、誰かの足音がする。

「結歌、そこにいるのか?」

 聞こえたのは若い男性の声。

 神代結歌の父にしては若すぎる。でも呼びかけられたのだから、もう待たなくていいのだと、葦名は学生鞄の取っ手に手をかけた。その時。

「います、契(けい)兄様」

 神代結歌はそう答えた。葦名には、文字で見たわけではなかったから「ケイ兄様」としか分からなかった。

 父でないのか。そう思った葦名は学生鞄を再び置く。

 ふすまを開けたのは、成人するかしないかの青年だった。上背がある。百八十センチぐらいだろうか。目が丸くて大きいのは神代結歌に似ている気がする。マスクを着けていて、顔の下半分は分からない。水色のシャツと黒色のスラックスを着ている。どちらも折り目がしっかりしている。

 小柄な葦名は、背が高い彼に羨望を抱かなかったと言えば、嘘になることを認めた。

「その彼が、結歌が話していた、お父様のお客様かい?」

「そうです」

 青年が落ち着いて問いかけると、神代結歌は、座ったまままっすぐ青年を見上げて、細い声で答えた。

 青年は立ったまま神代結歌を見下ろしている。

「結歌がお父様に友人を紹介するというので、どんな人か自分の目で見たくてね。その人は信頼できる人なのかい?」

 神代結歌は、一瞬答えに詰まって、細い声を出した。

「信頼できる人です……」

「お父様は厳しい人だから、結歌が認める人でもお眼鏡に適わないかもしれないけどね」

 神代結歌は視線を床に落とした。

 逆に青年は視線を上げ、葦名と目が合った。

「お客様、くれぐれも父に粗相のないようにお願いします。父は厳しいお人で、無礼者にはお客様であっても容赦ありません。双方わだかまりを残さぬよう、礼には殊の外、気をつけていただきたいです」

 葦名はぽかんと口が開いた。何も言えなかった。

 青年はふすまを閉めた。

 視線を床に落とす神代結歌と、葦名が部屋に残された。

 葦名は思う。

 大変な家に来てしまった。

 葦名は見聞は広くない。それでも、この家は彼の狭い常識に反していることだらけ。

 まず呼び名。父が「お父様」で母が「母さん」で兄が「ケイ兄様」。

 序列がおかしい。普通だったら母を立てるところを、兄が母の上に立っている。

 そして最上位に位置する父は客人すら気を遣うことを求められる立場。

 そりゃあ、大人と子どもですよ。自分が下なのは分かってますよ。それでも、もうちょっとフレンドリーでもいいのじゃないかしらん……

 おかしな事だらけで、なんだか調子が狂う。

 そんな家で、神代結歌は、どこか、家族におびえている様子がある。

 家族におびえるのはおかしい。でも葦名もその家族におびえている。同じ家族におびえる神代に心の奥底で同情を覚えた。

 神代結歌は顔を上げる。

「あの人は、私の兄で、神代契といいます」

「無理に紹介しなくていいから」

「そうですか……」

 葦名に断られると神代結歌も黙った。沈黙はつらい。けれど今までの様子から、家族に触れることの方が気まずくなるように思える。触れない方が葦名にとっても楽だ。

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