6-3 いい人を見つけたね

 それから長く時間が経った。話もせず、時計も本もスマホも見ない。

 途中で廊下から足音が聞こえた。これで待ちは終わったかと思ったが、連絡が来ない。

 時間が経つに任せるうちに、葦名は船をこぎかける。

 少し眠い頭にスマホの着信音が響く。

 葦名は、自分のスマホの着信音と違うと分かった。目の前で神代結歌がスマホを取り出し、はい、はい、と答えている。

 神代結歌がスマホをしまう。

「お父様の身が空きました。私はこれから準備に行きますから、葦名君はここで待っていてください」

 そう言って神代結歌は部屋を出てふすまを閉じた。

 一人残された葦名。寝ぼけ眼のままで神代結歌の父に会うわけにいかない。

 パツン。

 両手で自分の両頬に張り手を入れた。

 少し間が空いたが、神代結歌は戻ってきた。

「葦名君、こちらに来ていただけませんか。荷物はこの部屋に置いて、身体一つで来てください」

 そう言われて葦名は手ぶらで立ち上がった。

 部屋を出て、神代結歌を前にして、木目張りの廊下を進む。

 葦名は、扉やふすまが開けっぱなしの部屋がなかったり、物が投げ出されていないことに気づく。なんだか高級旅館やかつて旧家だった文化財の内部に思える。生活感がない。

 廊下の突き当たりが見え、ふすまは廊下の右に並んでいる。神代結歌は一番奥の部屋のふすまで立ち止まる。するとその場に正座する。

「お父様、入っていいですか?」

「ああ」

 部屋の中からは、ある程度の年齢が高いの男性の声が聞こえた。

 神代結歌は、葦名が待っていた部屋のふすまを開けたときとはまったく違う、極めてゆっくりとした手つきで静かにふすまを開ける。

「葦名君、右手奥にお座り願います」

 客にお座り願うと言っているにもかかわらず、神代結歌は葦名を見ず、部屋の奥を見ている。

 部屋の左のふすまから見て、右手に座布団が二つ。左手に座布団に座る男性が一人。

「お邪魔します」

 葦名は、部屋の中から漂う雰囲気に、思わず伺いを立ててしまい、頭を下げて部屋に入る。そして右奥の座布団へと向かう。それを見届けると神代結歌は立ち上がって部屋に入りふすまを閉め、右手前の座布団に向かう。

 葦名は座布団の上に正座すると、向こう正面に座る男性を見た。

 ぱっと見で感じたのは、年齢の高さ。高校二年生の神代結歌の父であるはずだが、葦名の父より顔の皺が大分深い。

 しかし顔も身体も細く、髪の毛が豊かで、老いている風には見えない。現役の風情がある。

 細い身体は上背がある。「ケイ兄様」と同じくらいか。

 銀のフレームの奥にある目は細い。兄弟の目元は母譲りだと思った。

 警戒心が強いと感じたのは、マスクを着けているから。よそ者が何を持ち込むのか分からない。そう疑っている様子がありありと見える。

 そして服が普通じゃない。鼠色の着物と、着物より色を落とした帯。

 着物を着こなして、背筋をすっと伸ばして正座している。

 そして、上座である部屋の奥に厳かに座っている。

 葦名は娘の客。目の前の男性は家の主人。

 葦名は、違いすぎて参考にならないかもしれない話を思い出す。男性が娘さんをもらおうという話をすると下座に通されるらしい。それに似てる。そう思って、娘さんをもらう話と今の自分を比べる厚かましさが情けなくなった。

 やっぱり子どもは立場が低い。葦名はそのことを心に刻む。

 さて、いざ神代結歌の父に会ったものの、どこから話を始めていいのか分からない。どんな挨拶をすればいいのか。頭が堂々巡りする。

「人の家に上がったら名前を名乗ったらどうだね」

 葦名は目の前にいる男性の声を聞いた。低めで、落ち着いた、少しいら立ちをにじませた声だった。

 失礼に気づいた葦名は両手を膝に置き頭を下げる。

「僕は……葦名律といいます……神代……結歌さんと……学校で、同じ学級です……」

「私は神代(こうじろ)祐介(ゆうすけ)という。結歌の父だ」

 葦名が顔を上げたとき、神代祐介は真正面を向いていた。これは推測だが、彼は頭を下げなかったのだろう。

 神代祐介の視線がゆっくりと神代結歌に向く。神代結歌の肩がびくりと震えた。

「結歌、彼に我が家の事を教えたというのは本当かね?」

「そうです、お父様」

「それで、彼は私に話があるというのだね?」

「そうです」

 鎮座する神代祐介と、身体が小刻みに震える神代結歌。

 これは尋問。

 葦名が見た、親子の会話の印象は、その一言。神代結歌は今日のうちで一番おびえている。

 神代祐介の顔がゆっくり自分の方に向いてくる。葦名は圧力を感じる。

「言ってご覧なさい」

 神代祐介が葦名に向ける視線には不信がある。何やら値踏みされている。葦名はそう思う。

 ここで負けてはいけない。

 葦名は、神代家に来た意味を思いだした。神代結歌を楽にするために来たのだった。相手に悟られないよう、気持ちだけ唾を飲みこむ。

「神代結歌さんは、あなたからいただいた力のために苦労しています…… 力は、重荷になっています…… 神代結歌さんは、うらやましいくらい優秀で、同じ学級にいる僕は彼女を見て、どうやったらテストでそんな点を取れ得るんだろうといつも思います…… 特別な力が無くても社会で生きていける人だと思います…… あなたからいただいた力を、捨てることはできませんか」

 途切れ途切れだったけど、最後は言い切った。言い切ったことに満足して力が抜けそうになり、目の前の神代祐介を見て、再び背筋に力を入れる。

「神から特別に授かった力が重荷だというのかね?」

 神代祐介は、それまでより声を低めた。

「はい。重荷です」

 葦名は負けじと声を細めたつもりだった。だったが彼は少年である。どうしても言葉は軽かった。

「結歌、私が力を授かったときのことを、彼には話していないのかね?」

 問われた神代結歌は、かろうじて声を出す。

「話していません……」

 神代祐介は、彼の真正面、葦名と神代結歌の間の誰もいないところに視線を定めた。

「二人とも、この家が授かったものの価値が分かっていないようだ」

 分からず屋呼ばわりされた二人は何も答えない。三人の間で、今は神代祐介の時間だ、という認識が共有される。だから彼は語り出す。

「葦名君、君に私が神から力を授かったときのことを教えよう。君たちは『バブル崩壊』を知っているかね。君たちにとっては、生まれていない、学校でも習わない、歴史の一部に過ぎないだろう。だが三十歳になるかならないかだった私にとっては現実だった。当時の私は銀行に勤めていて、企業向け融資の営業を担当していた。絶対つぶれないと思われていた銀行が次々と巨額の赤字を出し生き残りのために人員整理と合併を急ぐ。まだ若かった私は直接的に人員整理の対象となるわけではなかったが、法人顧客をまわる際の厳しさは筆舌に尽くしがたく、どの先どうなるかと思った。そんな顧客まわりの最中に私は倒れて、そのときだよ。神から、神が私に力を授けたこと、その力の意味、神と約束するための歌の詠み方、それらを啓示されたのだ。気がついて起き上がったとき、周囲は私を心配していたのだが、心配されるのは何も知らない周囲だと分かっていた。神から特別な人間として選ばれたのだから。それから私は、銀行を辞め、世の中で力を受け取るべき優れた人のために歌を詠むことを生業にしたのだ。優れた人たちを富み栄えさせ、私はその端を受け取る。誰でもいいわけではない。力を受け取るべき人は少ない。目の前の人間がいかなるものか、しっかり見させてもらう。さっさと歌を詠めばいいとなじってくる人間もいた。そういうのは駄目だ。ものの価値が分かっていない。神の力が簡単にいただけるものではないと分かった人間に、私は歌を詠む。そうして生きてきたのだ」

 懐かしむように、誇るように、息継ぎをほとんどせず、神代祐介は語る。目は葦名と神代結歌の間の無人の空間を見ている。

「私が結婚し、子どもをもうけたのは、力を授かってしばらくして生活が安定してからだ。私を信じる人間は栄えた。私も、妻を得て、子どもを得て、立派な家庭を築くことができた。私たちがここでこうして暮らしているのは、神から授かった力のおかげなのだ。それを重荷などとは…… 君たちは力の意味が分かっていない……」

 神代祐介の言葉には、自信と、理解しない者への蔑みがあった。

 神から授かった力によって得た、立派な家の綺麗な床の間で、娘は父の眼光におびえている。

 葦名は思った。この人は嫌ってもかまわない。人生経験が少なく、なぜと問われると困るのだけれど、この人におびえるのは筋がないと思った。怖いけど、怖いけど、彼が黙ったところできちんと言葉が口に出た。

「あなたは力を得て成功したかもしれませんが、神代結歌さんにとっては、力が無ければ生きていけないものでもありませんし、力があって幸せになったかどうかも疑わしいです。神代結歌さんの生き方をあなたが決める必要はないと思います」

 神代祐介の目が、ようやく、葦名を捉えた。

「世にも希で高貴な力を授かって、使いこなせないのは、本人に力が無いからだと思うが?」

「特別でなくても、生きてていいんだと思います」

 葦名は、負けない、と自分に言い聞かせて、神代祐介と向き合う。

 しばし時間が流れる。

 葦名は、違和感を抱いた。神代祐介の表情から、警戒が薄れたのだ。

「口答えばかりで不遜な子どもだと思ったが、なかなかいい目をしている。結歌、いい人を見つけたね」

 葦名と神代結歌は、まさか褒め言葉が出るとは思っていなかった。神代結歌の表情が少し明るくなる。

「そうです。葦名君は信頼できる人です」

「この子なら力を授けるに十分だ」

 コノコナラチカラヲサズケルニジュウブンダ。

 その音の意味が、一瞬、神代結歌には理解できなかった。理解して、彼女は恐怖を覚えた。

「お父様、何をおっしゃっているのですか?」

 神代祐介は娘の狼狽にかまわず立ち上がり葦名に歩を進める。

「お父様、そんなつもりで葦名君を連れてきたのではありません」

「決めるのは私だ」

 神代家の親子は事態を理解していたが、葦名には何のことかさっぱり分からない。なにをしていいのか分からず、そのまま正座して座っていた。

 すると神代祐介が眼前でひざまずき右手の平を葦名の額に伸ばした。

「お父様、お止めください!」

 神代結歌の絶叫を聞き終わらないうちに、葦名の世界は暗転した。


 葦名は意識を失い身体が右に倒れる。

 神代祐介はそれを支えようともせず、倒れるに任せる。

 神代結歌は十四歳の誕生日に自分に何が起きたのか、自分の目で見た。


 葦名が目が覚めたとき、世界が今までと違って見えた。

 視界のすべてにとれないフィルターがかかっているように見えた。

 これはどこかで見覚えがある。

 あれだ。シャボン玉を通して奥を見たときの虹色がかった景色だ。葦名はそう分かった。

「大丈夫じゃないですよね?」

 神代結歌が葦名の側に近寄り顔をのぞき込んでいる。

「なんだか目がおかしい……」

 目を覚ました葦名を見ると神代祐介は先ほどの蔑みとは違い信頼のまなざしを向ける。

「葦名君は今までとは違う世界に生きているのだ。それを自覚しなさい」

 神代祐介は立ち上がりふすまへと向かう。

「結歌、葦名君に歌の詠み方を教えてあげなさい」

 神代祐介は神代結歌に背を向けたまま告げ、部屋を出て行った。

 部屋には横倒しの葦名と放心した神代結歌が残された。

 葦名は身体を起こす。

「これから……どうするの……」

 葦名に問われて神代結歌はポツリとつぶやく。

「今日はもう遅いですから、お帰り願えませんか。また別の日にお話しします」

 葦名は神代結歌に案内されて、待たされた部屋に戻る。学生鞄からスマホを取り出して時計を見ると二十時四十分を過ぎていた。何分倒れていたかは分からないが、会話の長さから考えて、二時間以上待たされたのだと目算した。

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