10-8 クラスメイトの相談に乗って、やりたいようにやって、七転八倒しましたけど

 父が帰宅したのは翌日、金曜日の夕方のことだった。

 神代家の三人が力を失った。つまり神代家の収入源が失われたことを知った妻の遥は一日遅れで狂乱した。

 遥は離婚協議を始めると言い出す。

 祐介は歯切れのいい答えができない。

 週末。

 神代結歌の父、祐介はぼんやりと縁側に座っている。これまでより背を丸め、家の庭の木々を何も言わず眺めている。

 結歌は、父が大きなものを失ったと知るが、そのものの禍々しさを思い出すに、そのようなものに頼った父の無力さを、そして大きく膨らんだ父を信じた自分の無知を、もの悲しく思う。

 週が明けて月曜日、いつもと同じフリをして学校に通う。

 彼はいつも自分の後に教室にやってくる。ほら、今日も、教室の前の扉から入って私の方に向かってくる。

「神代さん、おはよう。あれから……どう?」

 葦名は神代結歌の横に来たとき、彼女に声をかける。校内で悪い噂が立つ神代に話しかける生徒がいると、周囲の視線が集まる。

 神代は、周囲にあまり聞こえないよう、小さめの声で答える。

「葦名君、おはようございます。うちは、あれからなにも…… 私と仲良くしていると、葦名君がいろいろ言われますから、しばらく、声をかけなくていいですよ」

「そうか。分かった」

 神代の拒否に、葦名は不釣り合いな明るい微笑みを作る。

 彼はずっと、こうやって微笑んで、周囲の不幸な子に手助けをしてきた。それは見ていた。そして今、自分が、彼から手助けされる身となったのだ。神代は自分の身の上を知った。

 神代結歌の父が妻と娘の声をかけたのは、金曜日の夜だった。

「遥。結歌。私の話を聞いてくれないか」

 父に案内されて床の間に向かうと、床の間には既に座布団が敷かれていた。上座に二つ。下座に一つ。父は一つだけの下座の座布団に座る。ということは上座の二つの座布団は妻と娘の席だ。神代結歌は落ち着かないものの上座の座布団に正座する。

 父は、妻と娘が座ったのを見ると語り出す。

「遥。結歌。私は今まで、いろいろ辛抱させた。いい暮らしをさせてきたと思っていたが、私の我が儘だったようだ。私は仕事を無くし、今では見るべきものもない。それでも……」

 父は畳に両手をつき、深く頭を下げる。

「これからも私と一緒に暮らしてくれないか。私からのお願いだ」

 神代祐介が頭を下げ、目線が上となった神代遥は、これが初めてであろう、夫への侮りを見せる。

「あなたは今まで働いていたのですか?」

 神代祐介は頭を下げたまま、しばらく黙り、何も言わないかと思われたところで答えた。

「それは、遥の思うとおりだろう……」

 神代遥はふっと息をつく。

「あなたが謝ったことと、離婚協議は話が別です。どうするか、これから考えさせてください」

 今日はこれ以上の歩み寄りは無理と悟り、神代祐介は顔を上げる。

 顔を上げた父に、神代結歌は話したいことがある。

「お父様」

「なんだ?」

「私からお話があります」

「言ってみなさい」

 父が発言を許してくれたので、今まで怖かった父に、幾ばくかの親近感を抱きながら、神代結歌は願いを口にする。

「これから、母さんと同じように、『父さん』と呼んでいいですか?」

「構わん」

 そう裁可するように答えた父は、自分の振る舞いに気づき、ばつの悪い顔をする。

「いや…… 父と思ってもらえるだけありがたい……」

 ばつの悪そうな、照れるような神代祐介の様子に、神代結歌は、彼が父であることを認めた。

 神代祐介は、やや弱く、恐れ多いものに触れるように神代結歌に問いかける。

「結歌。お前が連れてきたあの子、葦名君と話がしたい。彼に電話をつないでくれないか。どうだろうか。できれば顔を見ながら話をしたい」

「彼なら受けてくれると思います」

 神代結歌はにこやかに答えると、立ち上がり、部屋を出て、自室に向かい、しばらくして手にスマホを持って戻ってきた。父の眼前に正座し、スマホの連絡帳を表示して、「通話」ボタンを押す。


 葦名はホウレンソウをザクザクと切っている最中だ。そこに自分のスマホから着信音が鳴り始める。調理作業のいいところなのに、面倒くさい。そう思いながらスマホを見ると「神代結歌」の名前が表示されている。しかもビデオ通話。

 ただ事ではない。鬼気に駆られて、居間に向かい、なにもない壁を背にして座り、「電話に出る」ボタンを押す。

 スマホの画面に表示された神代の顔は、予想にまったく反して、明るい。葦名は拍子抜けした。

「葦名です」

 返事をした葦名に、神代は落ち着いた様子で語る。

「葦名君、今、いいですか。父さんが葦名君と話をしたいそうです。受けていただけませんか」

 緩んでいた葦名の心が凍り付いた。神代が父を呼ぶ名が「お父様」から「父さん」に変わったことも、ただならぬことだと葦名に思わせる。

「いいよ……」

 葦名は答えた後で唾を飲む。

 スマホの画面がスパンし、神代の父が写る。

 初めて会ったときと同様、世間から隔絶されたかのような着物姿に縁なしメガネ。しかし彼から漂う空気は角が取れていた。失礼だが、年相応に老けた気がした。

 神代の父は、なけなしの矜持を振り絞るように、カメラを見つめて声を出す。

「神代祐介だ。葦名君、久しぶりだね。私から君に尋ねたいことがある。答えてくれるかな」

 葦名は、一瞬逡巡して、首を縦に振る。

「いいですよ」

 神代祐介は葦名の首肯を認めると厳かに語り出す。

「君は神からなんと伝えられたのかい。契があのようなことをしでかすにいたって、神代家を見放した神から力を奪う命を受けたのだろう? 目的あって結歌に近づいたのだろう? 本当のことを明かしてくれないか。いや、神の命をお伝え願えませんか」

 神代祐介は恭しく頭を下げる。

 葦名は、プッ、と吹き出した。少し笑い声が漏れた。気持ちよくなりかけたところで、相手が目上であることを思いだし口を押さえた。

「ごめんなさい……」

 丁寧に謝ろうとしたものの、半笑いになってしまい、抑えるのが大変だ。

 神代祐介はゆっくり頭を上げる。

「私は笑われるようなことをしましたか?」

 分かってないな。葦名は神代祐介の誤解を理解した。

「そんな、なににつけても神様と結びつける必要ないじゃないですか。僕から神代さんに近づいた訳でもないですし。クラスメイトの相談に乗って、やりたいようにやって、七転八倒しましたけど、思ってなかった結果になっただけです」

「思ってなかった?」

 言葉を口にしたまま口を閉じきらない神代祐介を見て、葦名はまた半笑いになる。

「僕は人間だから、先のことが分からないまま、こうなったらいいんじゃないかって、思いつきでやってただけなんです。人間みんなそうですよ。将来のことが分からなくても、日常生活を続けなければいけないし。ただ、今回は自分でも頑張ったと思います。それだけです」

 葦名が笑みを浮かべると、神代祐介は思い詰めたような顔をする。それがまた、葦名には面白い。

「私が考えるべきことは多そうです」

 神代祐介は困惑を隠しきれないまま答えると、目線をスマホの少し上に上げた。

「結歌。葦名君と話したいことはないかい?」

 これは何かある。葦名はそう直感した。心して待つ。

 数秒だが間が空いた後。

「いいえ。ありません。葦名君、今日はありがとうございました」

 そして画面は神代祐介を写したまま、神代結歌に切り替わることなく、ビデオ通話が切れた。

 なぜ間が空いたのか。葦名には少し気になった。

 それでも、それ以上に面白い会話だった。

 葦名は、先ほどの神代祐介を思い出しながら、こういう人だったのか、と思う。それは複雑に絡んでいて、一言で言い表せない。


 葦名とのビデオ通話を終えた神代祐介は立ち上がり、二階に向かう。

 彼が立ったのは、部屋の扉の前。

 彼は呼びかける。

「契。これまでいろいろあったろう。私はいい父親ではなかった。しかし、契、お前には未来がある。私は心を入れ替える。これからやり直そう」

 そう呼びかけた刹那。

「やりなおしなんてあるもんか!」

 部屋の中から叫び声が飛んだ。

 神代契は部屋から出てこない。

 部屋の前に食事を置くと、しばらく経つと食器が空になっている。隠れてトイレに行っているようで、途中で見つかるとトイレに入って鍵をかけて立てこもり、皆が遠ざかるまで出てこなくなる。

 世界を手に入れたはずの彼が、今自由にできるのは、父が買った屋敷の、父が彼にあてがった、小さな一室だけになってしまった。

 しかし、ここで作者が顔を出すことを許していただければ、彼を責めるのは酷だ。

 短歌で現実を作り替えるよう定めを受けて生を受け、妹は転落し、父に可愛がられ、なにもかもが上手くいくにつれ、彼が選べる未来の選択肢は狭くなっていったのだ。

 また、葦名が言うことが正しければ、彼は彼に力を与えた何者かから他人を害する短歌を詠む役を割り当てられただけなのだから。


「神代契? 知るか? あれからいくら呼びかけても返事をしやしねえ。奴は負け犬なんだよ」

 ヤックキングは今日もしゃべっている。

 短歌で現実を作り替えると豪語した変な男との関わりは黒歴史として葬りたいが、コメント欄には続報を求める声が絶えず苦慮している……

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