10-7 これは抗えそうにない
気づくと、乗っているタクシーの外に総合病院らしき建物の壁が至近に見えた。
タクシーの扉は開いていて、扉の外から白い衣装を着た救急隊員が車内をのぞき込んでいる。
神代祐介は、なぜこんなことになったのか考えた。今日のお客様は多忙のため、お目にかかるのが遅い時間帯になった。事が終わるとちょうどいい時間になったため酒の席に誘われたがお断りした。酒で醜態をさらすのは信用、威信に関わる。これまでも酒の席はお断りしてきた。そしてタクシーに乗り自宅に向かったのだが、今はなぜか総合病院の前にいる。
「気づきましたか?」
そう言われて、気がつくと、タクシーの料金メーターの灯りが、病院の窓から漏れる灯りが、目に突き刺さる。世界は、トゲが刺さりそうで、角が肌を切りそうで、険しい。
そうだ。これはバブル崩壊して未来が絶たれたと思われた、あのとき以来だ。
神代祐介の心に冷気が忍び寄る。
「名前は思い出せますか?」
救急隊員の呼びかけに、口から漏れたのは自分の名前ではなかった。
「大変なことになった……」
「ええ、そうですね。あなたは気を失って、タクシーの運転手が当院に案内してくださったんです」
説明してもらえて状況を理解したが、それは大切な事柄ではない。
神代祐介は右手を振って否定する。
「いや、大丈夫です。自分の身体は自分が分かっていますから」
「そんなことありませんよ。隠れた病気の可能性もあります。今晩は様子を見ます」
「コロナで救急患者の受け入れは止まっているのでは?」
「先ほど、あなたの体温を確認しました。呼吸器の症状も無さそうですね。受け入れに問題ありません」
扉の外には救急隊員が二名。タクシーの前方には心配そうにのぞき込む運転手。
これは抗えそうにない。
神代祐介はタクシーの運転手に料金を確認し、財布から支払った。財布には余裕がある。
彼はタクシーを出ながら思う。今度都心に出るとき、タクシー帰りはできないだろう……
神代結歌は、スマホの地図を見ながら歩き、家まで四十分近くかかった。
家の玄関は鍵がかかっている。錠前に鍵を差し込んで開ける。
扉を開けると、二階から、若い男性の号泣が聞こえてくる。
あの声質。場所。父の声ではない。
居間にさしかかると母の姿が見えるので挨拶する。
「母さん、遅くなってごめ……」
「結歌! 今までなにしてたの!」
母は座ったまま振り返り、憤懣を娘にぶつける。
「先ほど、お父様が救急搬送されたと電話があったわ。こんな大事なときに遊び歩いて。ほんと、間が悪い子ね。契は怒鳴り始めたと思ったら泣き出して。今日はいったい何なのよ」
神代結歌は、申し訳なく思うが、無力なので、落ち着くよう自分に言い聞かせ母に答える。
「今日のことを私が説明しても、母さんは信じないと思います。母さんが信じる、お父様や契兄様が母さんに説明するのを待つのがいいです」
「なによ、それ! ちょっと、結歌! 待ちなさい!」
神代結歌は母の呼び止めに応じず自室に向かう。
二階に上がると、自室の隣にある契の部屋から号泣が響いてくる。
神代結歌は、扉を開ける気にならない。
彼女は着替えて、風呂に入り、兄の顔を見ず就寝した。
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