10-6 種をまき、育てた木に、成った一つの果実を、今、もぎ取る

 神代契はいらだっている。そして、今の自分の感情に「いらだつ」という言葉が相応しいことに気づいていない。

 世界を手に入れたはずだった。それなのに。

 自分が手に入れた世界に、一つ、また一つ、割れ目が入っていく。ひび割れて粗末なものになっていく。

 こんなはずじゃない。こんなはずじゃない。こんなはずじゃない。こんなはずじゃない。こんなはずじゃない。こんなはずじゃない。こんなはずじゃない。こんなはずじゃない……

 彼は、もう何一つ我慢がならない。

 妹と、妹をそそのかしたあの小僧が、憎い。


 葦名の頭が疲れを感じ始めた、そのとき。

 ティントンタントンティントン。ティントンタントンティントン。

 神代のスマホが鳴り始める。葦名には誰が通話をかけてきたか大体分かった。スマホを手に取る神代の硬い表情を見ても、それは当たっていたようだ。

 神代は、スマホを耳に当てず、右手を最大限前に伸ばしてスマホを顔の正面に位置させる。

「葦名がいるんだろ! 写せ!」

 スマホはスピーカーフォンになっており、神代契の声が葦名の耳にも入った。この音量には馴染みがある。ビデオ通話だと葦名には分かった。

「神代さん、いいよ」

 葦名が受諾すると、神代は意味を察してスマホの画面を葦名に向ける。

 スマホの向こうに映る男は。品のいいシャツを着て、きちんと整髪されていて、目が血走り口が歪んでいる。

「俺に逆らってなにが楽しい!」

 罵声に、こちらも礼を尽くす必要はないと葦名は悟る。言いたいことを言うことにした。

「他人の父が重傷を負うのを楽しんで待っているような人間が、恨みを買わないですむと思っているんですか!」

 言い終えるか否かのタイミングで神代契の口が動く。

「お前、妹に言ったんだって。俺たちは何者かに頭を操られていて、決められた短歌しか言えなくなっているって。じゃあ、今日お前が詠んだ短歌も、全部、その何者かが言わせたんだろ? お前が俺を邪魔しているのも、その何者かが決めたってことだろ? 俺は違う。自分の意思で現実を作り上げている。操られている人間が自由な人間に歯向かうなんて、世界の真理が許さないんだよ!」

 スマホの向こうに映る男の、口の端が上がる。勝ち誇っている。

 それを見て、葦名は自分がなにをしているか、なにをしたいのか、考えた。少し間が空いたが、きちんと答えが出た。

「僕は、自由に短歌を作ることができなくなっているけれども、それでもあなたの望みを否定する未来を自分の意思で選んでいると信じたい!」

「は? ハ、ハ、アハハハハハハ……」

 スマホのスピーカーホンから葦名家の今に笑い声が響く。

「笑えるよ。最高に笑える。木偶がなにを言ってんだ。そんなお前に俺が負けるわけない。……そうだよ、なんでも許されるんだよ! この前は命は取らずに恩情をかけたけど、もう気にする必要はないんだよなあ!」

 そして男の口が動いた。


 お前など心臓握りつぶされて

  命脈絶える奈落に落ちる

 (句の先頭:ア行の『お』、サ行の『し』、タ行の『う』、

       マ行の『え』、ナ行の『あ』)


 男の叫びを聞いた葦名は冷静になれた。

 彼が短歌を詠んだということは、打ち消すのではなく現実にするつもりだということ。

 ならば、ここからはこちらのターンだ。

 葦名は、自身が種をまき、育てた木に、成った一つの果実を、今、もぎ取る。

 彼は口を開く。


 神に歌を受け入れられし者達は

  力を捨てて世俗に戻る

 (句の先頭:カ行の『あ』、ア行の『う』、マ行の『お』、

       タ行の『い』、サ行の『え』

  句の末尾:ワ行の『お』、サ行の『い』、ハ行の『あ』、

       タ行の『え』、ラ行の『う』)


 神代の口が開いた。

「それって……」

 神代が続きを言う前に。葦名が全て聞く前に。

 葦名の世界が暗転した。


 葦名が気がついたとき、左頬に感じたのは安いカーペットの毛羽立ちだった。

 葦名はゆっくりと身体を起こす。

 部屋の家具調コタツ。その向こうの液晶テレビ。壁と天井の境目。そのいずれもが明確な輪郭を伴っている。

 それは一ヶ月前まで見ていた世界そのものだ。もうシャボン玉の中にいない。これが日常。自分は、当たり前の世界に帰ってきたのだ。

 そして、あのシャボン玉の中に三年間いた神代のことを思う。

 彼女は身体を起こすと、首を回して、部屋の周囲をぐるぐると見回す。しばらく視線が揺らいでいる。まだ慣れてないのだろう。葦名はおもんばかる。

 彼女がようやく葦名の方を向く。

「これで、力を捨てられたのですか?」

「そうだよ」

 葦名が首を縦に振ると、神代の顔が明るくなる。

「私たちは自由になったのですね」

 神代の言葉に、葦名は左手で頬をかく。

「僕たちは人間だから、神様が決めたルールに従うしかないから、本当に自由だと言えるのか分からないけどね」

 葦名は神代の身を心配する。

「神代さん、今晩は泊まっていかない? いや、変な意味じゃなくて。お兄さん、事態を知ったら神代さんを恨むよね。家に帰って、その……復讐として、神代さんに危害を加えないかな……」

 その言葉に、神代の視線が定まる。

「いいえ。帰ります。明日になったら態度が変わっているようなら、契兄様の怒りは大したことなかったということです。これからも毎日続く話です。今日だけ逃げているわけにいきません。心配はありがたいですが、こればっかりは受けられません」

「そうか……」

 神代は座ったまま深く頭を下げる。

「今日はいろいろと、本当にいろいろと、ありがとうございました。感謝の言葉は足りませんが、今日はここまでにします」

 神代は立ち上がり、家具調コタツの上に置いていた自分のマスクを手に取った。神代がマスクを着けると、葦名にはいつも見慣れた神代の顔。日常に戻ったのだ。葦名はそう思った。

 玄関まで神代を見送り、彼女が出て行った後に扉を閉める。

 葦名は、また独りの夜を迎えた。

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