9-1 言葉でなんでもできるなら
お父様が言葉でなんでもできるなら、僕は兄なのだから、妹より頭を良くしてくれればいいのに。
神代契。十才の雑感。
彼は特殊な家に生まれた。父は世のために働いていると言うが、背広を着て会社に行くわけでも、つなぎを着て機械の油にまみれるわけでも、コンバインに乗って稲を刈り取るわけでもなかった。
父は、ただ、短歌という言葉をしゃべっていた。
五七五七七。三十一音。
父がその言葉を口にすると、会社が儲かったり、社長の息子の結婚が決まったりした。
それは父のおかげで、ありがたがった人々は、お礼に父にお金を払った。
気づいてみれば、契が通う幼稚園や小学校は、立派な家に住んでいる子どもばっかりで、アパートと言うらしい蜂の巣のような家に住んでいる子どもは別の学校に住んでいて会うことがなかった。
そして父は、契の誕生日には契のために短歌をしゃべってくれた。それはみんな叶った。
そのおかげだと思う。契は小学校で成績が良いほうだった。先生にも父にも褒められた。
契は気づいていなかったけれど、それは社会の上流に居るということで、彼は、この先ずっと、他人を下に見て暮らすのだと信じ込んでいた。
でも。契には誕生日が一ヶ月早くて三才年下の妹、結歌がいた。結歌が同じ小学校に上がって、不協和音が生じ始めた。
結歌は、入学以来、テストで学年トップ三人から落ちたことがなかった。契が小学校一年生だった頃の成績より、ずっと良かった。
今のうちさ。そう思っていたが、二年生に上がっても落ちる様子がなかった。
自分が兄なのに。先に生まれたのに。大事にされるはずなのに。
契の父は言葉でなんでもできる。できていないということは、する気がないということ。
契は、自分を妹より優秀にする気がない父を恨んだ。
それに。契は知らなかったが、父にとって、息子に対する態度と、娘に対する態度は、どの家でも違う。
有り体に言えば、父はどうしても娘に甘くなる。
優秀で甘く見られる妹。劣り冷たくされる兄。
契は幼いから語彙を知らなかったが、蔑ろにされる、というのが彼が抱いた感情を表す言葉だった。
そうして鬱屈した四年を過ごした。
十四才の誕生日。父は短歌を詠んでくれると、契は思っていた。だが期待しなかった。どうせ今まで空振りだったのだ。だが父は怖いので、身なりを整え、床の間で正座をして父を待った。
床の間に現れ上座に座った父は厳かに言った。
「今日は大事な話がある。私が持つ、神様と約束を交わす力を、契にも授けよう」
契にはにわかには信じがたかった。そんな何でもありの力、子どもに渡すのか?
「契、こちらに来なさい」
父は、言葉だけで、身体を動かすことなく、契に呼びかけた。契は、信じられなかったが、逆らうと後が怖いので、立ち上がって父に近づいた。
「座りなさい」
契はおとなしく父の眼前に座った。
父が右手を上げ、手のひらを大きく開き契の額に当てたところで、契の視界が暗転した。
目を開けると、契の視界が虹色に染まっていた。輝いていた。契の身体は無様に左に倒れ、顔は畳にべったりついていたのだけれど、畳の目の感触がこそばゆかった。
父はようやく自分を愛してくれた。
契は起き上がって、両手を畳につき、額が畳につくまで頭を下げた。
「お父様、ありがとうございます」
何のてらいもなく、契は感謝の言葉を言えた。
契が頭を上げたところで、喜び勇んで父に問うた。
「お父様、この力は私だけに授けるのですか。結歌は受け継がないのですか」
父は表情を変えず、言葉を口にした。
「契の十四才の誕生日に授けたように、結歌にも十四才の誕生日に授ける」
契の世界が凍り付いた。そのことを気取られぬよう、契は必死に顔面を保った。
何もかも有利に進めてきた妹が、神と契約を結ぶ力でも同等に立つ。それまで三年しかない。契が上に立てる時間は短い。
床の間を出た後、失意に打ちひしがれる契の頭に、ある考えが浮かんだ。彼が最近知った、天啓、という言葉の意味を知った。
自分はなんでもできるのだ。妹の運命も操れるのだと。
三年後。結歌の十四才の誕生日が来た。
あのときの自分と同じように、結歌は父から力を授かるのだろう。
しかし、こちらは何をすべきか知っている。何も知らない人間は負ける運命にあるのだ。
契は歌を詠んだ。
短歌読み結歌は人を傷つけて
それより歌を詠誦できず
(句の先頭:タ行の『あ』、ヤ行の『う』、ハ行の『い』、
サ行の『お』、ア行の『え』)
まだ結歌は明るいなぁ。しばらく契はそう思っていた。このときは自分の力を疑った。
結歌の顔が暗くなったのは、彼女の誕生日から三ヶ月後、九月のことだった。結歌が級友に怪我を負わせる歌を詠み、級友が右腕を骨折したという。
父は、直後には結歌を気遣うそぶりを見せた。だが、もう決着がついたのだ。
結歌は歌を詠めなくなった。父は結歌を見放した。
その直後のこと。
契は一つ歌を詠んだ。
妹は私の前に平伏し
背くことなく告げ口できず
(句の先頭:ア行の『い』、ワ行の『あ』、ハ行の『え』、
サ行の『お』、タ行の『う』)
その日の夕方。
結歌が家の階段を上がってきた。うつむき気味でしょげていた。
契は上の廊下から声をかけた。
「結歌、お父様から目をかけてもらえなくなった気分はどうだい?」
こんな言葉を兄から結歌はかけられたことがなかった。兄はもっと、包容力があって、穏当で、紳士的な人だった。
「契兄様、なにかあったのですか? 今日は特別にいらだっているようですね」
契はふっと息を吐いた。
「なにかあったのは結歌だけだよ。お父様に見放されて、自分の無力さを思い知って。俺はなにも変わっちゃいないさ」
俺、という一人称を兄が発するのを結歌は初めて聞いた。
「契兄様はそんな人ではないはずです。私が悪ければ直しますから、おっしゃって……」
「しゃべり始めたら一日じゃ終わらないよ」
結歌の肩が震えた。結歌は階段の途中で立ち止まっていた。
契は上から結歌を見下ろしていた。まさに、上から。
今まで何年、妹を恨んだか。これまでの思いを載せ、たっぷりとねめつけた。
「結歌にはなにもできないんだけどね。俺に背くことも、お父様に告げ口することも」
結歌の目と口が開いた。なにかに勘づいたのかもしれなかった。
それでも、もういいのだ。決着はついたのだから。
それから、日々、たっぷり結歌を調教して、結歌を下に位置づけた。
これで結歌は転落した。邪魔するものはなくなった……
そこで契は気づいた。まだ父がいることに。
命を奪おうという気はなかった。だが未成年の契は未だに父の庇護下だ。世界を思うように操れるはずなのに、父の下にいることが歯がゆかった。
大学にはおとなしく入学した。逆らうのは得策ではなかったから。
しかし令和三年の七月が来た。神代契、二十才の誕生日。
これで外界から見える法律の世界でも契は父の庇護から外れた。後はなにをしても勝手だ。
大学なんて通う必要はない。世界を手に入れたのだから。
手に入れた世界で何をする? 金を稼ぐか?
契は、少し前から、父のやり方に不満を持っていた。優良顧客をつかんでいるし、家族四人が余裕ある生活をしているのだから、勝ち組であるのは確かだった。
しかし全てが叶う人間が、なぜこそこそ隠れる? もっと派手にやったって逆らう者はいないのだ。
父が自慢げに語るバブル崩壊後と、令和三年の現在では、世界のあり方が大きく違う。一番大きいのはインターネットの普及。才覚さえあれば、資本がなくとも世界の耳目を奪うことができる。
とは言え、だ。一人でやるのは面倒だ。誰か手下が、奴隷が欲しかった。
それから契は動画配信サイトを見て回った。誰か、既に視聴者を集めている、簡単に言うことを聞きそうな奴はいないか。
見て回った中で、ある騒がしい男が目に入った。その男は、新しいことを何も言っていなかった。代弁者、といえば聞こえがいいが、誰もが既に見下している人間を足蹴にするばかりの、言わば、水に落ちた犬を打つのが生業の男だった。名前は「ヤックキング」。無防備なことにコメント欄は編集なし。
こいつは新しいことに目がなさそうだ。契は、その男を手駒にすることに決めた。
ただ、今のところ世間での発言力はヤックキングが上。不用意に近づけた使われるのは契の方。
ここは演出がしたい。実績を積んで、相手が、周囲が気づいたときには有無を言わなくさせたかった。
大丈夫。公開しておきながら他人に気づかれずテキストがネットに積み上がっていく状況も、自由に作れるのだから。
賢人が詠んだ短歌に聴衆は
無視を決め込み騒ぎ立てせず
(句の先頭:カ行の『え』、ヤ行の『お』、タ行の『い』、
マ行の『う』、サ行の『あ』)
この歌は自室でこっそり詠んだ。そして、他に詠んだ短歌を、ヤックキングの配信の度に一首ずつコメント欄に書き込んだ。
それから二ヶ月経った。時は令和三年九月二十三日。秋分の日。契にはもうカレンダーなんてどうでも良くなっていたけれど、祝日だと思うと動き出すのにちょうどいいと思えた。ヤックキングの生配信につけたコメントも数がたまっていて、頃合いだった。
王名乗るたわけが神にひれ伏して
恵(めぐみ)を得んとすり寄らんかな
(句の先頭:ア行の『お』、タ行の『あ』、ハ行の『い』、
マ行の『え』、サ行の『う』)
配信終了後、SNSでヤックキングからDMが届いた。相手はネタを見つけたと思っていた。獲物をつり上げたのは、契の方だった。
契は思った。
これからは俺のターンだ。
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