10-3 こんな日が来るなんて

 木曜日。

 葦名は、午後の終業前に、神代に待ち合わせの内容をスマホのメッセージアプリで伝えた。二人のどちらの家からもやや違う方角の、商店街に近い場所を指定した。放課後になると二人は関係を気づかれないように別々に学校を出て、やや遠回りして指定の場所に着いた。

 葦名がたどり着くと、先に神代が待っていた。

「葦名君。今日はよろしくお願いいたします。ところで、夕食を買うからこちらに寄ったという話ですけど、ここでいいんですか?」

「うん。そうだよ」

 そう。葦名が日頃通っているスーパーの目前である。

 二人でスーパーに入ると、神代は弁当コーナーに直行する。

 葦名は買い物かごを取っているうちに遅れてしまった。先に行った神代にあわてて呼びかける。

「神代さん。お弁当、買わなくていいから。材料をきちんと買うから」

 神代は弁当を手に持ったままきょとんとしている。

「材料を買っても作る人がいないじゃないですか」

 葦名は、自分が男の子であることを思いだした。料理をするようには、見えないわなあ。

「信用しないかもしれないけど、僕にごちそうさせてよ」

「葦名君が作るんですか?」

「いいかな…… 最後は、冷凍食品もあるから……」

 神代が弁当を棚に戻した。渋々、に見えた。

「分かりました。葦名君、お願いします」

 疑われていても、ここは行くしかない。

 先に行っていた神代に追いつく形で二人並んだ葦名は、神代を引き連れるように食材コーナーを巡る。

 神代がどんなものを好みか分からないけれど、女の子にあうようなものがいいだろう。いつもの葦名家のご飯食ではちょっとまずいか。手短にパスタだ。味はトマトソースにして……

「パスタにトマトって使うんですか?」

 生トマトを手に取った葦名に神代が問うた。トマトソースには輸入のトマト缶がいいのだろうけれど、高いから生トマトにして…… と思ったら神代に呼び止められた。買い物かごには既にパスタを入れている。葦名は、トマト缶を使わないことをケチだと見なされたと思った。

「うん。使うよ…… ケチでごめんね」

 神代は目の前で右手を振る。

「別にケチとは思ってませんけど」

「まあ、いいよ……」

 葦名は生トマトを買い物かごに入れた。

 他にはタマネギ、ニンニク、サラダ用のレタス。コンソメやコショウや油は家にある。

 レジで会計しようとしたとき。

「私が半分払いますから」

 財布を開いた葦名は神代に呼び止められた。神代が取り出した財布は葦名の財布より高級そうで、中身も厚そう……

 これはトマト缶も買えたのだろうか。神代が財布からお金を出すのを見ていた葦名は後悔を口に出さなかった。

 スーパーから歩いて二十分ほど。葦名の部屋があるスーパーに着いた。

「ここの三階なんだ。エレベーターがないから階段だよ。ごめんね」

 謝る葦名に対し、神代は黙って見上げていた。神代さんの家、立派な屋敷だったなぁ。葦名は彼我の差を強く感じた。

 階段はいつもよりゆっくり上がる。女の子が一緒だから。マナーでは、階段では女性が上で、男性が下で緊急時に備えることになっている。けれど神代さんは初めてなのだ。先導するべく葦名が前に立つ。

 葦名浩二、律、と書かれた表札と言えない紙が貼り出されている扉の前で立ち止まり、鍵穴に鍵を刺し、扉を奥に開ける。

「ただいま」

 いつもの癖で葦名の口から声が出た。

「お帰りなさい」

 返事があったのに驚いた。気づくと、声は後ろからして、神代が微笑んでいた。

「ありがとう……」

 平日はいつも父の帰りが遅く、葦名は家で父を迎える立場だ。家に人が待つのは二年ぶりだ。とても面はゆい。葦名は簡単なお礼しか言えなかった。

 とは言え、これから夕食の準備だ。ゆっくりしてはいられない。

「あの、ご飯ができるまで、部屋で待ってて……」

 お客様にはゆっくりしてもらおうと神代に声をかけたところで、神代は動く気配がない。

「葦名君が作るところ、見てていいですか?」

 信用されてないなぁ…… 男だからしょうがないか。

 葦名は観念した。      

「うん、いいよ……」

 アパートの作り上、ダイニングキッチンではない。作る様子を見るには隣の部屋の戸を開け放しにするしかない。神代には隣の居間に座ってもらって、戸を開け放すことにした。

 まず生トマトとタマネギとニンニクをみじん切りにして、ニンニクから炒め始める。次にタマネギ。透き通ったら生トマトを入れて、ここからは煮込み。水分が減っていくのを見ながら、味を調節する。

 トマトソースが終盤に入ったら鍋に水を入れて火にかける。パスタがゆでられるように沸騰するまでしばらくかかる。沸騰したところがトマトソースから手を離す頃合いで、鍋にパスタをバラバラと投入。パスタは日本の麺類よりゆで時間が長い。そこは待つしかない。そしてゆであがったところでザルにパスタを取り、トマトソースを煮詰めたフライパンに投入して絡める。

 最後にレタスを手でちぎってボウルに盛る。パスタを二つの皿に盛って、二人分のトマトソースパスタとレタスサラダのできあがり。

 葦名は盆に皿を載せ、今の家具調コタツに運ぶ。盆が小さいから三往復する必要があった。

 神代が目を見開いている。

「いただいていいんですか?」

「いいよ。神代さんが半分お金出してるし」

 口に合わなかったらごめん、は言わなかった。そんなこと言うなら最初から作らなければいいから。あとは、出たとこ勝負。

 葦名はフォークを手に取ったが、目は神代の手元と口元に行っていた。

 神代は、マスクを外し、フォークを手に取り、パスタをフォークに絡めて口に運ぶ。一口含んで、ゆっくり咀嚼した……

「美味しい……」

 その言葉は率直だった。

「よかった……」

 葦名は、謙遜しつつも、心の中ではガッツポーズ。自分にとっては自慢だ。

 しばらく食べ進んだところで、神代が言う。

「私の母さんと同じくらい料理が上手ですね」

 褒められると気分がいい。つい、葦名の口が軽くなる。

「まあ、お母さんがいなくなって、作るしかなかったしね。神代さんも家では料理するんでしょ? 女の子だし」

 その途端、神代の顔が暗くなる。

 どうしたのだろうと葦名は思った。それからしばらくして、神代が、細い声で。

「私、料理ができないんです……」

「えっ?」

 葦名の素っ頓狂な声に、神代はこくんと首を振った。

「したくなかったわけじゃないんです…… ただ、お母さんが、いつも、あなたは短歌を詠んでいればいいから、と料理の手伝いをさせてくれず……」

 葦名の口が、パカッ、と開いた。

「えっ? そんな…… 家庭科の実習はやってるよね?」

「家庭科『しか』やってないんです。スーパーでお弁当を買おうとしたのも、私が料理を作れなくて、葦名君が料理を作れるとは思わなくて……」

 葦名は、呆れたように首をコクコク振った。そういうことか。スーパーに入ってからの神代とのやりとりの背景を読み違えていたことに、ようやく納得した。

 神代が、まだ、料理に手を戻さず、言う。

「あの…… 片付けを手伝ってもいいですか?」

 皿を割られるんじゃないか? 葦名は真っ先に損害を心配する。しかし神代は物欲しそうな顔をしている。

 しかたない。

「いいよ」

 隣で見ていればいいか。葦名は、そう、自分を納得させた。

 食べ終わった後、二人並んで流し台に立つ。葦名が横で見ていて、神代がスポンジと皿を手にしている。

 それにしても、神代の手つきは危なっかしい。

「神代さん?」

「何です?」

「スポンジは、ただ撫でるんじゃなくて、皿のくぼみにきちんと角を当ててね。そうしないとくぼみの汚れが落ちないから」

「はい!」

 神代はあわててスポンジの当て方を変える。

 葦名は、自分の母ばかり見てきたが。女性が全員料理が得意なわけではないのか…… 今まで誤解していたと自分の認識を改めた。

 それでも。この台所に女性が立つのは三年ぶりだ。

 こんな日が来るなんて、神代と知り合う前は想像していなかった。

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