8-9 歌は、神に聞き届けられた

 ケイ兄様のマスクの左端が上がった。葦名にはケイ兄様が口角を上げたように思えた。

「ここで一つ、君が力に対してどれだけの覚悟を持っているのかを試そう。君にも父親はいるのだろう?」

 ケイ兄様の言葉は疑問で終わっているし、目が喜々としている。なにかへの期待。それは視線の先にある葦名へと向かっている。葦名は言葉を求められていることを知る。

「います……」

 ケイ兄様の目の輝きが増した。

「力を持つ君なら、僕の歌を打ち消せるはずだ。単純だよ、飲み物のカップを転ばせるだけでもいい。打ち消すだけなら中身はかまわないんだから」


 君の父乗りし車が半壊し

  命脈あるもすぐには癒えず

 (句の先頭:カ行の『い』、ナ行の『お』、ハ行の『あ』、

       マ行の『え』、サ行の『う』)


「命は取らない。そこまで残酷じゃないからね。後は君の番だ。歌を詠めばいい」

 ケイ兄様のマスクの左端が再び上がった。彼の目は輝いている。

 葦名の、頭が、白くなる。

「契兄様、何をおっしゃるのです?」

 神代結歌が口を開いた。彼女はあわてて右に座る兄を見る。兄は妹に慈しむような視線を向ける。

「なに、僕たちは力持てる者だ。彼に降りかかった災いは彼が払えばいいんだよ」

 そしてケイ兄様は正面の葦名を見る。目が、ギラついている。

「さあ、速く詠んだらどうだ?」

 葦名の頭の中で、現状が少しずつ形を定めていく。目の前のケイ兄様が、自分の父を負傷させることを目論んだこと。自分が取り消すのを待っていること。うろたえている自分を喜々としてみていること。

 詠むんだ。詠めばいい。彼が言う通り、カップを転ばせるだけでもいいんだ。

 何を成すべきか、ようやく飲みこんだ葦名は、必死に頭をひねる。


 机には横の人から手が当たり

  コーヒーカップ倒れたるかな

 (句の先頭:タ行の『う』、ヤ行の『お』、タ行の『え』、

       カ行の『お』、タ行の『あ』)

 

 歌は詠んだ。後は両方が打ち消されて何事も起きないことを祈る。

「『お』の段の句が二つある。それでは神は聞き届けないよ」

 ケイ兄様の声には嘲りが含まれていた。

 葦名は歌を思い返す。たしかに「横の人から」と「コーヒーカップ」で『お』の段が被っている。これでは待ってもケイ兄様の歌は打ち消されない。なぜ気づかなかったのだろう。

 情けないと思う暇はない。歌を詠むことが成すべきことの全て。葦名は声を絞り出す。


 父からの電話は一言『元気だよ』

  帰れば家はいつもの夕べ

 (句の先頭:タ行の『い』、ダ行の『え』、ガ行の『え』、

       カ行の『あ』、ア行の『い』)

 

 父の元気な声を聞きたい。その想いが葦名の口を動かした。

「これも駄目だねえ」

 ケイ兄様は嘲る。気づけば「父からの」と「いつもの夕べ」が被っている。

 どうしてだ。短歌を作ることもできないのか。葦名は自分の力の小ささに震える。


 父思う子どもの心笑わずも

  人の覚悟は受け取れましょう

 (句の先頭:タ行の『い』、カ行の『お』、ワ行の『あ』、

       ハ行の『い』、ア行の『う』)

 

 神代結歌が声を上げた。その声は細いながらも怒気を含んでいた。

「結歌、怠けていたから歌の詠み方を忘れたのかい?」

 ケイ兄様の言葉に、神代結歌の肩が震える。葦名が思い返しても「父思う」と「人の覚悟は」が被っている。

 なぜだ? なぜ二人とも短歌を詠めない?

 葦名の頭に、白いもや。なのに周囲の人間の他愛ない会話はざくざくと彼の脳に突き刺す。言葉が、彼の脳を切り刻む。

 頭に、自分の言葉が浮かばない。

 冷房の効いたファストフード店内で、制服のYシャツの下、冷たい汗がポタポタと流れる。葦名の心に周囲の言葉ばかりが響く。

「終わったね……」

 ケイ兄様はふうとため息をついた。

 その意味に葦名は気づいた。

 四分十一秒が経った。ケイ兄様の歌は、神に聞き届けられた。神様とケイ兄様と約束した。

 なにをしてもしかたなくなった後、葦名の頭はなぜか冷静だった。失礼するなら、ドリンクのお代は払おう。

 彼は学生鞄から財布を取り出し、ホットコーヒーSの価格より多くの硬貨を机に置いた。

「失礼します」

 葦名は立ち上がった。

「帰りたまえ」

 ケイ兄様は冷たくあしらった。葦名は引き留められようとも留まる気はない。学生鞄を持ち立ち上がって神代兄妹に背中を向けて歩き出す。

「葦名君、待ってください!」

 葦名の後ろを、神代結歌が席を立ち彼を追いかける。葦名は背後に人の気配を感じ、振り返って神代結歌を見た。

「独りにさせて……」

 葦名は自分の顔を見られないが、その目は他人を拒絶していた。彼の目に、拒絶されて悲しみを浮かべる神代結歌の瞳が映った。彼は神代結歌を捨て置き、前を向き歩き出す。神代結歌は追いかけてこなかった。

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