2-1 ワガママな人もいるもんだなって

 令和三年も夏は暑い。

 この県立高校では、全教室に冷房が完備されている訳でない。八月末に二学期を始めたものの、九月に入っても校舎の中はまさにうだるように暑い。

 昼休み、廊下に「2年B組」という札がかかった教室の中で、三人の男子生徒が向き合っている。三人とも鼻と口を覆うマスク着用。二人は背が高い方と低い方のでこぼこが目立ち、中背の瓜実顔の生徒が二人に向かう。

 背の低い生徒が手を合わせる。

「俺、今日は日直なんだけど、家の都合でどうしても早く帰らないといけなくってさ。葦名(あしな)、頼むから、放課後の日直の作業、代わってくんない?」

 葦名と呼ばれた瓜実顔の生徒は微笑みを浮かべている。

「いいよ。僕は特に用事無いし」

 事もなく答える彼は、実に身勝手な願い事をされていることに気づいていないかのように顔が明るい。

 背が高い生徒がばつの悪そうな顔を作り右手で頭を掻く。

「葦名がいて助かったよ。お前、いい奴だな」

 背が低い生徒は合わせていた手を下ろして頭を下げる。

「じゃあ、頼むよ」

 そして二人の生徒が葦名と呼ばれた生徒に背を向け教室を出て行く。葦名と呼ばれた生徒は笑みのまま二人を見送った。

 二人は教室からかなり離れたところで顔をくずした。背が高い生徒は笑いをこらえているようだ。

「葦名って馬鹿だよな。他人が言うことを簡単に信じて」

 背が低い生徒はもう少し冷ややかだ。

「いや、俺は、あいつのことを性根が悪い奴だと思ってるぜ。八方美人のかっこつけでさあ」

 背が高い生徒が笑う。

「お前、利用しといてそんなこと言う?」

「葦名は利用されてもしょうがない、それしか存在理由がない奴さ」

 二人の侮蔑を、葦名と呼ばれた生徒は聞いていない。


 それと同じ時間、教室の別の場所で、三人の女子生徒が一人の女子生徒と向き合っている。四人とも鼻と口を覆うマスク着用。

 間近で向き合っている二人は、片方がボブヘアで、他方は髪の毛が肩まで伸びている。ボブヘアの生徒は背中に二人を負う形だ。向かい合う生徒は横に長い目を伏し目がちにしているのが目立つ。

 ボブヘアの生徒が向かいの生徒に呼びかける。

「神代(こうじろ)さん、いつも一人でいるみたいだから、どうしてるのかなって。今日の放課後、よかったら、私たちと遊びに行かない?」

 神代と呼ばれた生徒は目を伏したまま右手を上げる。その手は左右に震えているが「止め」のポーズを作った。

「私のことは……気を遣わなくていいですから……」

 ボブヘアの生徒は顔を和らげる。

「気を遣うって事じゃなくて、一人でいる子がいると、まわりもあんまりいい気がしないしね。私たちのためでもあるから。気にしなくていいよ」

 ボブヘアの生徒が右手を伸ばすと、神代と呼ばれた生徒は身を退いて手が触れるのを避けた。

 拒否する態度が相手に伝わり、二人は一瞬無言で向かい合う。

 先に動いたのは神代と呼ばれた生徒だった。

「ごめんなさい。失礼します」

 彼女は頭を下げ、身体を起こすとスタスタと教室から出て行った。

 その場には三人が残された。

 向かい合っていた生徒が言う。

「こっちが気を遣ったのに、馬鹿を見たわ。話しかけるんじゃなかった」

 後ろで見ていたうちの一人が口を開く。

「神代さん、他人と関わる気が全くないよね。私たちみたいな馬鹿は相手にしないつもりかな」

 もう一人が続ける。

「あの人はひとりぼっちになるしかないよ」

 その三人の侮蔑を、神代と呼ばれた生徒は聞いていない。


 HRが終わった後、葦名は学級日誌を書き、代理を頼んだ生徒の名を書き込み、職員室に持っていった。

 扉を開けたとき、ひんやりとした風を感じた。葦名は、生徒と教職員では待遇が違うのだと、顔には出さずに教職員を羨む。

 教職員は皆マスクを着けている。授業中は声を教室の最後尾まで届かせるためにマスクを外す教師もいるが、職員室で大声を出す必要はない。皆が顔の下半分が白いマスクに覆われ、目と眉と髪だけが出ている。

 担任教諭は自席にいた。葦名が学級日誌を持っていくと、人の気配に気づいて振り返り、葦名であることを確認して眉を少し曲げる。

「葦名、今日の日直はお前じゃないだろ」

「そうでしたっけ?」

 葦名はとぼけた。

 軽い様子の葦名に、担任教諭の目尻が半ばあきらめたように下がる。

「どうせ誰かに頼まれたんだろ。葦名はもう少し自己主張する方がいい。学校の教師がこんなことを言うのは問題だが、自己主張しなくても、勉強を教えてもらえて、そこそこの成績をつけてもらえるのは、学校にいる間だけだ。社会に出たら、自己主張できないと、就職は難しいし、プライベートでは結婚も難しい。そのときになって失敗したら人生が曲がる。そうならないうちに他人に負けない強さを身につけろ」

 葦名は反省した様子を見せず、学級日誌を机に置く。

「そんなものですかねぇ」

「そんな態度だと先が思いやられる……」

 のれんに腕押しの様子に、担任教諭は葦名を諭すことをあきらめた。

 そのとき、葦名は女子生徒の声を聞いた。

「私、短歌は書けないんです」

 葦名は声が発せられた方向を見る。

 椅子に現代文の教師が座っていて、女子生徒が弁明している。

 女子生徒が同級生の神代であることを見て、葦名の心に違和感が広がった。

 記憶の中の神代は、人付き合いは悪いが、教師に刃向かうタイプではない。

 そんな彼女が、頑迷に教師に抵抗している。

 教師のいら立ちは目と眉を見るだけでも分かった。

「ただ五七五七七で字数を揃えて書くだけだぞ。日頃から書き慣れていない高校生の短歌に芸術性は求めない。テレビ番組だと専門家に罵倒されるような拙い作品でも、提出さえすれば落第にすることはまずない。だが、課題を提出しないとなると、本気で落第を考えることになる」

 葦名は、二学期が明けてからの現代文の授業が短歌であることを思いだした。学級では、二週間前に、短歌を三首書いて提出するよう課題を出されていた。他の生徒と同様、葦名も、慣れないながらもどうにかこうにかひねり出して提出した。恥を怖れなければ字数を揃えて単語を繋げることぐらいはできるものだ。

 これがまた葦名の心に違和感を広げた。

 その神代という女子生徒は、成績は悪くない。それどころか「すこぶる」と評すべき成績上位者だ。ペーパーテストが行われる全教科、九十五点未満を獲ることが稀。噂で、中学校までは名門私立校に通っていたとも聞いた。どうして変哲もない公立高校に入学したのか、周囲は不思議に思っている。

 そんな頭の回転の速い子が、短歌を書けないという。

 その頑なさの原因が分からなかった。

 抵抗する神代に、ふてぶてしさはない。それどころかおびえている。どうにかこうにか絞り出した声は震えていた。

「俳句は書けますし、代わりに原稿用紙十枚書けと言われたら書きます。でも短歌だけは書けないんです」

 原稿用紙十枚書ける人間が短歌を書けない。それは極めておかしな理屈だと葦名は感じた。

 誰もがそう思うだろう。教師はいらだっている。

「一人だけ違うことをさせるわけにはいかないんだよ。このままだと……」

「落第してもいいです!」

 教師の言葉に神代がかぶせた。

 必死なのは分かったが、極めて身勝手な態度だと周囲の誰しもが思った。

 教師は怒りに火が点きかけていた。

 葦名は思った。我を通しても仕方がないのに。

 とばっちりを避けるべく、葦名は足早に職員室を出た。


 昼休みに葦名は、今日は特に用事はない、と言った。

 でもそれは「特別な用事」はないという意味であって、彼には毎日の用事がある。

 部活動をせず、学校帰りにスーパーマーケットに寄って、家に帰って夕食を作りながら父の帰りを待つ。それが彼の日課だ。

 学生鞄の中に常備しているマイバッグに、スーパーで詰め込んだのは、豚肉、タマネギ、ジャガイモ、にんじん、カレールー。

 葦名の家は集合住宅の三階。鉄筋コンクリート製だが築が古くエレベータがない。階段を思春期の少年の元気で登り切る。

 中に入ると2LDK。物の散らかり具合は世間並み。葦名は郵便受けから取り出した広告郵便物をダイニングテーブルに無造作に置く。その様子から生活臭が匂ってくる。

 流しに立った葦名は、包丁で根菜類を切って、鍋に油を引いて炒め、そこに切った豚肉とカレールーと水を足して煮込む。煮込みに入ってカレーに手がかからなくなると、冷蔵庫から残っていたレタスを取り出してちぎり、残りのにんじんを千切りにしてレタスに載せた。

 それでも時間が余ると、カレーを煮込む鍋の前に椅子を置いて座り込み、スマホをいじる。そんなずぼらさも板についている。

 父の浩二(こうじ)が帰ってきたのは二十一時も近くなった頃だった。

「律(りつ)、帰ったぞ」

 律。それが葦名君の下の名前だ。

 父は玄関を開けるなり匂いで夕食に気づいたが、特に「カレーか」などと声をかけることはしない。

 律は料理に失敗するような子じゃない。そこには父として子への信頼がある。

 父は手を洗いマスクを捨て、ワイシャツとスラックスを部屋着に着替えると食卓につく。

 こうして葦名家の夕食が始まる。

 父がカレーを口にすると顔をしかめる※。

「これ、相当辛口じゃないか?」

 律は気にも留めずカレースプーンを口に運ぶ。

「夏だから、このくらいでいいんじゃない?」

 父はスプーンで掬う量を少なくする。

「母さんも甘いものが苦手で辛党だった。母さんの料理を食べ続けて舌が慣れたのか。それとも……」

 父はコップを口にし、水を飲みこんでから言う。

「母さんに似たのかな」

「あまり似てないと思ってるけどね」

 律の反応は薄い。

 律には気がかりがある。

 葦名家は東京の隣県に住んでいるが、父は都内で営業職をしている。

 コロナ禍の以前は一日中車を運転して営業先をまわっていた。

 新型コロナウイルス感染症が日本に入り、他人と直接会うことが敬遠され始めてからも、訪問がゼロになったわけではない。また父の勤め先は職場環境がよくなく、世間で流行るリモートワークも導入されていない。父は毎日都内へと電車で通勤する。

 誰かに会って新型コロナウイルスに感染しないか。それが律の気がかりだ。

「夏に入って下火になったけど、まだ新規感染者はいるんでしょ。仕事の関係者で罹った人はいないの? 同僚とか、営業先とか」

 今では、新規感染者、と言えば新型コロナウイルスのことだ。

 父は気丈に言う。

「父さんが直接会う人が罹ったという話はまだないよ。運がいいのかもしれない」

「運頼みじゃ困るよ」

 律は暗い顔をする。

 その暗さが、いつもより深いように父には見える。

「律、学校でなにかあったか?」

「どうしてそんなこと聞くの?」

 律は父の言葉に手を止めた。心配をかけるのが嫌だった。

 父は臆さない。

「何か悩んでそうだから」

「悩んでないよ」

「言ってご覧」

 父が尋ね返すので、律は父の目を見ずしゃべり始める。

「学校の同じクラスにある女子生徒がいてね、現代文の課題の短歌を提出しなかったから先生に怒られてたんだよね。言い訳がおかしくって、俳句なら書けるし原稿用紙十枚書いてもいいけど、短歌は書けない、って。ワガママな人もいるもんだなって」

 父が困った表情を見せる。

「律も異性の話をする年頃か。親としては悩みが増えるな」

 律はレタスサラダを食べていたフォークを置いて、右手を振って否定する。

「そんなんじゃないよ。ワガママな人が女の子だっただけ」

「つきあうなら順序は守れよ」

「だから違うって」

 父の決めつけが律には迷惑そうだ。

 こうして夕食が進む。

 葦名家の夕食に、律の母はいない。

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