8-1 力をそんなに簡単に使うんですか?

 その月曜日の朝は公共放送の朝のニュースで放送事故がありネットで騒ぎになったが、普段から違うチャンネルを見ているしネットに張り付いているわけでもない葦名家にとっては特段代わり映えしない朝だった。

 それでも葦名律にとって違うのはスマホに神代結歌からのメッセージが入っていること。彼は家を出る前にメッセージを確認する。

「今日は十一時から二十時までは短歌を詠まないでください」

 十一時からとは「仕事」と呼ぶにはやたら遅いと葦名律は感じた。でも神代結歌の父は一種の自由業であるから、会社勤めのように九時五時で働かなくても許されるのかもしれない。そう考えて胸に納める。

 葦名がいつもと同じ時間帯に高校の教室に入ると、これまでと同じように神代は先に登校していた。彼女は葦名に気づき顔を上げる。

「おはようございます」

「おはよう」

 すれ違うとき、挨拶する神代に葦名は挨拶を返した。昨日身近にいたので性別は違えど気軽に声をかけられる。その点はこれまでと変わったと葦名は感じる。

 始業までの十分弱。教室では登校している生徒が若さ丸出しで、自分だけの些細で下らなくて重大な不満を級友に漏らしている。

 ある女子が級友に愚痴をこぼした。その女子は、先日、神代を遊びに誘って断られたグループの一人だった。

「『彼氏』って、普通もうちょっと『彼女』の趣味に興味を持つものじゃないのかなあ。あたしが『女優の高原水希っていいよね』って言ったら、『あんなレベルが高すぎる人に自分がなれると思ってんの?』って。自分がなろうと思ってんじゃないの。向こうが上だって認めて、ああ、いいな、って言っただけ。それをどうして、張り合ってるって勘違いするんだろう」

 神代はその会話から目を背けるように反対側を向く。

 そこに歩いて行く人物がいる。葦名だ。

 彼は愚痴をこぼした女子の後ろを通り過ぎる。そしてボソリと言った。


 彼氏にも一言言いし奥底に

  妬みなきこと伝わるだろう

 (句の先頭:カ行の『あ』、ハ行の『い』、ア行の『お』、

       ナ行の『え』、タ行の『う』)


 その歌は神代の耳にも届いた。彼女は驚き、椅子を「ガタッ」と音を立てさせて立ち上がり、声がした方向を見る。大きな音を立てたので周囲の視線が彼女に集まる。愚痴をこぼした少女も神代を見て、何だあいつと言わんばかりの冷たい視線を投げる。

 しかし神代の視線を正確に追った先にいる葦名は、チラと神代を見ると平静な表情で自分の席へと戻る。

 斜め後ろの席に座った葦名が座ったところを見届けた神代は、自らも席に座り斜め後ろを向いて、小声で彼に声をかける。

「力をそんなに簡単に使うんですか?」

「使っちゃいけない時間には使ってないよ」

 おそるおそる言葉を口にする神代に、葦名は気負いなく、ちょっと論点をはぐらかす。

「この力がどれだけ大切なものかと思っているんですか」

「短歌を一つ読めばいいだけでしょ」

「そんな簡単なものじゃないんです」

 葦名から見て、神代はなにかの視線におびえている。教室の生徒に力のことを知られてはいけないのは当然だ。だが、彼女は別のなにかの視線を探している。葦名には、そう見えた。そして葦名はおびえるつもりはない。

 そのタイミングで担任教師が教室に入ってきた。神代は渋々黙って前を向いた。

 その後、HRが終わり、授業の一限目が終わった。時刻はまだ十時前。

 教室内で学級の男子が愚痴る。

「兄貴が大学の階段で転んでさぁ、脚の骨にひびが入ったんだよね。通う病院は整形外科だからコロナはあんまり関係ないと思うんだけど、今はやっぱ検査とか厳しいって言ってたわ」

 葦名はそれを聞き止めた。席から立ち上がり、その男子の後ろを通る。


 兄様(にいさま)の脚にできたる骨のひび

  手間もかからず無事治るなり

 (句の先頭:ナ行の『い』、ア行の『あ』、ハ行の『お』、

       タ行の『え』、バ行の『う』)


 後ろを葦名が通り過ぎ様につぶやいたので、愚痴った男子は振り向いた。

「葦名、兄貴の怪我のこと、何か言った?」

 葦名は首を横に振る。

「なんでもないから」

「変なの」

 男子は訳の分からない行動を取る葦名を捨て置いて、それまで会話していた級友の方を向いた。葦名は何事もなかったかのように自席に戻る。

 神代はそれを見ていた。

 理屈から言えば、ここで短歌を詠めば葦名が使った力を取り消せる。しかし神代はそれをしなかった。黙ったまま、斜め後ろの席に座る葦名をじっと見る。

 前からじっと見られているのだ。葦名は当然気づく。でも、少しの間だけ神代の目を見ただけで、すぐに目を逸らした。

 こうして休み時間が終了。二限目を終えて、十一時目前。

 休み時間に入ると神代が左斜め後ろの葦名をじっと見つめる。葦名は目を逸らさず、しかし威嚇をやり返しはせず、平然とした視線で神代を見る。二人はそのまま無言で向かい合い、目を逸らさなかった。三限目の授業の教師が教室に入ったところで神代が前を向いた。

 それから終業のHRが終わるまで、葦名は神代から重い空気を感じた。

 言いたいこともあるんだろうな。

 神代の気持ちを、実は少し納得できている。でも葦名には考えがある。彼は何をすべきか自覚していることに自分で気づいていた。致し方ない。そう思って時間が過ぎるのを待った。

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