第8話 雨の日の憂鬱

 二段重ねのふわっふわのパンケーキが運ばれてきて、皿に置かれたときにぷるん、と揺れた。パンケーキには粉砂糖が雪化粧のようにふりかけられ、その上をメープルシロップが滴り落ちていく。中央には溶けかかったバター。パンケーキのまわりに波打つ生クリーム、その流れを押しとどめるかのようなイチゴ、ブルーベリー、木苺。所々ミントの葉。傍らにトッピング用の抹茶ソースとあんこが入った小皿が2つ、添えられている。


 完璧なビジュアルに3人は「はぁ……」とため息をつき、揃って写真撮影に移った。このパンケーキを最高においしく魅せるための角度を探す。それから3人とパンケーキを入れて自撮り。うまく入らないね、と言っているのを聞きつけたか、手が空いてたらしいスタッフが撮ってくれた。


 インスタはやってないけど、たまにこれを見返して勉強がんばろう、なんて思う。Twitterは……画像載せるのめんどくさいな。それより早く食べたい。


 さて次はシェア。「3等分って難しいね」と言いながら切り、各々の口に運ぶ。「おいしぃいいいー!!」とひとしきり盛り上がったけど、そのあとシーンとして……そこから真衣の話になった。


「期末テストに備えてなのか、忙しいよね」と沙紀。

 結花は「やっぱり真衣もいないとつまらないね」と言ってはみたものの、あの日の視線を思い出すと胸が痛む。


 詩織があーん、と至高の一切れを口に入れて幸せそうに頬張る。もぐもぐしながら「真衣、トックラ行くって話してたよ。しかも理系」といきなり言ってきたものだから結花も沙紀も驚いた。


「へ? トックラ?」


 トックラ。正式にはトップクラス。結花たちの私立高校の普通科は8クラスある。文系理系が半々で、そのうち1クラスずつが難関大学を目指す成績上位のクラスだ。

「いや、真衣の成績ならわからなくはないけど……この時期に?沙紀、知ってた?」

「……知らなかった。けど、文理選択もトックラ選抜も2年進級時なのにね。ずいぶん時期が中途半端じゃない?」

「ふちのおやがさぁ」

「詩織、食べ終わってからおしゃべりしようねー」

 ついつい光に言い聞かせるみたいに言ってしまった。結花の言葉に、詩織が眉毛を大げさに上げて目をぐるりと回す。飲み込んでから「結花おねーちゃんわかったよう」と言い、沙紀が笑う。


 もぐもぐ、ごくん。

 ご丁寧に何もついていない口元をおしぼりで拭く真似までしてから、詩織は話し始めた。

「直接聞いたわけじゃなくて、正確にはうちの母親から聞いたんだけどさ」

 真衣と詩織は同じ中学出身だ。別なクラスで仲良くなったのは高校から。

 母親同士は同じ高校に進学した、ということから仲良くなったらしい。


「どうも真衣の父親が理系クラスに、それもトップクラスに入れたいって圧力かけてきたんだって」

「圧力? でどうにかなるもんなの、それ」と沙紀が言って抹茶ソースを自分の取り分にかける。夢中になってると思ったけどしっかり聞いているみたい。


「なんか具体的には放課後面談したりとか? それも父親じゃなくて母親が来てて、うちの親に回ってきたのはその愚痴だったんだけど。方針だけ決めて細かいことは母親に丸投げみたいな」


「真衣の意思はどうなの?」

 結花は不思議に思った。文系クラスから親の意思で急に理系のトップクラスだなんて。


 家族に振り回される自分と、真衣が重なった気がした。睨まれてからもやもやしていた。少し怖いという気持ちすらあった。それが心配に変わる。


「真衣の父親って、病院の院長なんだけど」

 初耳だ。


「真衣自身医者になりたかったけど、父親がお兄さんに継がせるつもりで正直真衣のこと放ったらかしだったんだって。真衣は迷って、友達の私らが全員文系選んだでしょ。それで文系クラスにしたんだけど」

 医学部に通う真衣の兄が、「自分には医者は向かない、他の道に進みたい」と相談なしに中退したのだという。父親は荒れ、それだけで済めばよかったが「じゃあ娘を医者にして継がせよう」と言い出したらしい。


 文理選択のとき、そんなに悩んでいるようには見えなかった。結花たち3人とも理数系が苦手で、得意科目が英語、国語などあからさまに文系だったし迷うことはなかったのだ。しかし改めて考えてみれば教科に関わらず満遍なく点が取れる真衣がすんなり文系にしたのは不思議といえば不思議だった。


「結局、親の意向で進路変更?振り回されてるね」

沙紀があんこを残らずパンケーキにのせた。

あっちからこっち。小皿のトッピングはもうなくなった。結花のパンケーキも少しずつ減っていく。


 外は雨。ガラスの窓に水滴が現れ、流れ、視界から消えていく。しとしとしと。


「だからまあ急だけど学校側は成績がいいからってトックラ移動は特に問題なさそうで、やっぱり頭いい子は違うのね、あんたも頑張りなさいってうちの母親に圧かけられちゃった」

 てへ、と詩織は舌を出す。


 詩織に悪気はなさそうだけど、それにしても。

「聞いちゃった後で言うのもなんだけど、詩織ベラベラしゃべってよかったの?真衣に悪くない?」


 結花が言うと、隣で沙紀がうんうんとうなずいた。まだ口の中にパンケーキ。「早くごっくんしないと虫歯になっちゃうよ」と母が光に言っているところが思い出されたけど、ここは真面目な話してるし我慢。

 やだなぁ2歳児との生活に侵食されてるなぁ、と結花は思う。


「だって真衣の母親、近所だからって、居間で2時間も話してったんだよー!祐樹くんのライブDVD、居間の大画面で見直したかったのにできないし勉強しようにも落ち着かないし、いいじゃん」

 詩織はふてくされている。正直、真衣のことより推しとの生活が大事らしい。沙紀はようやく「ごっくん」したようだ。


 真衣が最近付き合い悪い、その秘密を知ってしまった。


「真衣が言ってこない限り、私たちは見守った方がいいのかな」と結花が言うと、

「クラス変わることになったら寂しいけど……本人が頑張ってるのに水を指すのもねぇ」と沙紀が言い、

「はーおいしかったごちそうさま! ていうか私たちも進路考えなきゃでしょ」と詩織が言い出し、

「進路ねぇ」「昨日もらった三者面談日程表、まだ親に見せてないわー、気が重いわー」と口々に愚痴り出す。


 お皿のパンケーキはいつの間にか綺麗に食べられていた。


 店を出るとまた一段と雨が激しくなった。駅に急ぐ。3人とも傘があまり役に立たず、服や靴が濡れた。トイレに行ってから帰ることにして結花は2人と別れた。2人とも「早く着替えたい、シャワー浴びたい」と言いながら改札を抜けていった。結花もトイレに急ぐ。


 真衣、今も勉強頑張ってるんだな。すごいな。


 手を洗って、鏡で顔をチェック。どこにでもいそうなセミロングの女子高生が映る。


 私、家庭環境が複雑なことを理由にしてなかったかな。真衣は家庭に振り回されても文句言わず頑張ってるのに。もっと遊びたかったりするだろうに。


 そこで「祐樹きゅんのDVD観たかったよぅ」と嘆く詩織の姿が目に浮かんだ。


 ……いや、きっと愚痴も溜まるんじゃないだろうか。言いたくても言えなかった私みたいに。たまに走って発散するけど、真衣はそんな時間、あるのかな。そういえば流行りのお店とレナのこと以外趣味も知らない。


 気づくと後ろに誰か立っていた。

 しまった。ぼうっとしていて洗面台独占してた。でも隣空いてるのにな、と思って振り向く。


「すみませんどうぞ……ってあれ?」

 真衣だった。休日なのに制服だ。


「なんでここにいるの?」

 確か塾は夜までみっちりではなかったんだろうか。

「……今日は模試受けただけで夜はなし。なんか早く帰ってこいって言われてて」

「そうなんだ」


 戸惑ったような顔をしている真衣に「どーぞー」と再び場所を譲る。手を洗う水の音。


 久しぶりに話す気がする。

 真衣のこと考えてたら真衣が現れた。高校と塾の最寄り駅なので不思議はないが、タイミングが良すぎる。


 これって、チャンス、いや運命なんじゃないだろうか。


「ねえ、ちょっと話さない?あの、いつもの噴水のところで」

「少しならいいけど」

 真衣は躊躇ためらいながらも了承してくれた。


「てかなんで制服?休みなのに」

 噴水の縁に並んで座る。荷物は足の横。いつものスタイル。まるで真衣が忙しくなる前に戻ったみたいだ。

 上手く話ができる気がする。


 結花はにらまれたことなど気にしてないよ、という意思表示のつもりで、にっこり笑ってみせた。

「……塾行くくらいでおしゃれしても仕方ないし、模試は本番と同じ雰囲気で受けろって父親が」

 ぎこちないながらも真衣も笑みを浮かべてくれた。ほっとする。


「お父さん、教育熱心なんだね」

「どうなんだろ。父親のコマになってる気がする」

 沈んだ真衣の顔。こっちを見ない。


「難関大コース、授業ムズいし疲れる」

「大丈夫?」


 成績優秀な真衣でも疲れるなんて、よっぽど難しいんだな。

 愚痴を言うなんて珍しい。

 暗い顔をちょっとでも明るくしたい、と思った。私は家族に振り回されるあなたの気持ちわかるよ、理解者だよ、って伝えたい。


「詩織から、トックラに行くかもって聞いたよ。大変だけど、真衣、頭いいから大丈夫だよ!がんばって!」


 気づくと、さっき詩織から聞いたことを口走っていた。

「ありがと」と微笑んで、真衣は照れたように「詩織、おしゃべりなんだから」とつぶやく。


 笑ってくれた。

 結花は嬉しくなる。

 あとうちの家族のこと話してないのは真衣だけだ。沙紀とも詩織とも、話したことで距離が縮まった気がする。


 言っちゃおうかな。

 でもその前に。

 それよりもっと、気になることを。


「真衣、こないだ私の事睨んでたよね?」

 途端に真衣は微笑んだ顔を、すっ、と無表情にした。

 あっ、と思ったけどもう後には引けない。気になっていることを聞かずに先に進めない。


「私、なんかした?」

 沈黙。2回瞬きして、真衣は視線を壁に向ける。


 デパートのセールの広告。進学塾に美容整形の広告。その前を通りすぎる人達。誰とも目を合わせない。


「結花は、何もしてない」

 しぼり出すような真衣の言葉。


 まもなく電車が来る、とアナウンスが流れる。たくさんの足音。

 4人で話しているときはこんなに音が耳に入ってこなかった。もっとこの場所は話しやすかったはずだ。

 空気が重い。


「だったらなんで」

 また沈黙。

 座り直すとスニーカーがぐちゃり、と小さく鳴った。雨で濡れた足が気持ち悪い。


 なにか言わなきゃ。


「あの、私もね、親にはすごい振り回されてて、気持ちわかるよ。キツいとき、あるよね。愚痴ならいつでも聞くからね。でね、実はうちの家族って」

「は?なにそれ。同情のつもり?」


 言い切らないうちに、カウンターパンチ。

 背中がひやりとした。

 やばい。

 私はなにか、間違った。


「知ってるよ。かわいい弟がいて、よかったね!」

 言葉が棘となって胸に突き刺さる。

 同じ意味のことなら沙紀にも言われた。だけど。


 あざけるような歪んだ笑顔でこちらを睨む真衣からの言葉は、凶器だった。


「家族に振り回されてるって、あんなの私からしたらただの自慢だよ」

「もしかして、沙紀に話してるところ、聞いてたの?」

「そうだよ。話が楽しくて、後ろにいる私に気づかなかったんでしょ。靴箱でも沙紀と2人して、お互い話に夢中になってた」

 あのときの私は、前ばかり見てた。沙紀に受け入れてもらえるか心配で言葉を探してた。


「真衣いつも早く来てるじゃん」

「父親に朝から説教くらって電車1本遅れたの!」


 よりにもよってあの日に。

 いやいや違う、言いたいのはそんなことじゃない。


「ごめん、落ち着いたらちゃんと言おうと思ってたの」

 はっ、と強いため息をつかれた。

「いいよ別に。私が勝手に聞いて勝手にムカついてただけだよ。……だけど今、私のことバカにしたよね?」

「そんな」


「気持ちわかるって、簡単に言わないで!それに愚痴なら聞くよって、結花は結局そんだけ余裕あるんでしょ」

 私はこんなにしんどいのに、と吐き捨てるように言う。


 結花は言葉を探した。1ヶ月前のように笑い合えるような魔法の言葉を。

 お互い全て話して、もっと仲良くなれると思っていた。

 今まで自分の家族のこと、いや私自身のことを偽っていたから。「普通」との間に、壁を作ってたから。

 それを壊せば、受け入れてもらえると思っていた。


「私は振り回されてるんだから、正直に言えば受け入れてもらえる」と心のどこかで思っていた。


 母子家庭だったから。

 できちゃった婚だから。

 若い父親と、歳の離れた弟がいるから。

 我が家は普通と違うから。


 小さい頃からの食事の支度も、急な引越しも、妊娠中の母の世話も、新しい父親と仲良くなる努力も、光のいたずらの後始末も。


 全部私のせいではないのに、私は振り回されている。だから。


 


「愚痴ならいつでも聞くからね」という自分の言葉が頭の中でリフレインする。


 なんて偉そうなことを。


 私は、真衣を見下していたんだ。

親に振り回されて、トップクラスに変えられそうで、塾も詰め込んで忙しくて。


 真衣、可哀想だよね。そう思ってたんだ。


 きっと真衣は、私の気持ちを見抜いた。だから教室で睨んだときよりもっと、怒っている。


 喉が乾いてひりつく。

 言うべきことは、何も思いつかない。


「結花は素敵な家庭でよかったね!」


 捨て台詞を残して真衣は勢いよく立ち上がり、小走りに改札に消えていった。


 甘い香水の匂いだけが残った。



 ケータイが振動した。LINEに母からのメッセージ。1行で収まり切ってないのでアプリを開く。


「ごめん光が吐いてパパと病院洗濯機回してる終わったら乾燥機入れといて」


 何度か読み返す。

 内容が全然頭に入ってこない。それは、母が急いで打った、切れ目のない文章のせいではなかった。


 結花はのろのろとバッグを拾い上げ、改札を通り、電車に乗った。雨の影響で乗客が多く、座れそうになかった。手すりにつかまる。


 地下から地上に出た車両は、激しい雨の洗礼を受けた。暗い空に時折稲光が走る。窓に、表情がごっそりなくなった自分の顔が映る。


 真衣を怒らせた。

 言うんじゃなかった。

(でも、あの場で何を言ったら正解だった?)

 何人もの自分の声が、心の中でわめいてる。


(真衣もよくないよね?あんな睨んでおいて、忙しいのを理由に、何日も避けるような真似をしておいて)

(でも、さっき「睨んだ理由を聞かずに前には進めない」って、私思ったよね?自分の気が済まないから言おうとしたんでしょ?真衣のこと、ホントに考えてた?)

(私が、真衣に比べてマシな家庭環境だったから上から目線にムカついてたんでしょ?逆ギレもいいとこじゃない。そんなの私のせいじゃない)

(真衣に比べて、って何?友達でしょ?比べるもんなの?)

(友達ならなんで最初から話しておかなかったの)

(結局私は自分がかわいいだけじゃない)

 わあわあ、ぐるぐる。頭の中はぐちゃぐちゃだ。


 外は夕方なのに夜のように暗い。窓についた水滴が映り込む結花の顔の上を次々と滑り落ちていった。

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