第11話 学校の悪夢

 真衣のことは気にかかる。

 気にかかるが、期末テストは容赦なく迫ってくる。あと家事も。

 「学業を優先しなさい」とは言われるけど、やはり階下がバタバタしてると落ち着かない。


 一度は「ぎゃー!下痢がもれてるぅうう!」と母の悲鳴が聞こえて1階に駆けつけると、光が着ていた洋服、寝ていた子供布団まで茶色のシミがあって、結花は駆けつけたことを少し後悔したが、手袋にマスクを着用の上、汚れ物を手洗いして洗濯機に放り込んだ。


 最初の頃はうんちのオムツ替えも嫌だったけど慣れるもんだな。

 今日の対応はえらかった、えらいぞ私。あと洗面所がくちゃくなったぞ光。


 光は風呂に入れられ体から湯気をあげながら出てきた。腕と膝の服をまくった母が「ありがとうほんと助かる!!」と満面の笑顔で言ってくれた。


 母はすごい、と結花は思う。十何年前もこうやって赤ちゃんの世話をして大変だったろうに、また子供を産む決断をして、光を産んで。そりゃあ光はかわいいけど、母がその分犠牲にしたものも大きいのでは。私が結婚して子供産んだらまた違ったかわいさに気づくのだろうか。

まだ彼氏すらいないけど。


 光は日が経つにつれ、食欲が出てきて今ではすっかり元気だ。木曜日俊樹が病院に連れて行って登園許可書をもらい、結局病児保育はキャンセルした。


 元気になった、よかったよかった!と喜んでいたらいつのまにか踏み台を持ってきて、棚の上に置いてあったクレヨンを握りしめてリビングの壁でアート製作をして俊樹に「うわぁあああ!」に悲鳴をあげさせたり、遊んでほったらかしたまんまのミニカーを母が踏んづけたり……とにかくまた気が抜けない日常が戻ってきたのだった。階下にいると「ねーね!あしょぼ!」と小さい怪獣がまとわりついてくる。俊樹や母が気をそらせている間に2階に上がる。念のため、マメに自室の鍵をかけることにした。


 テスト期間が近づくとLINEのやりとりも少なくなる。たまに詩織がアイドルの動画を送ってくるが、一昨日からは「ヤバいテスト順位上げたらライブ行っていいって親がやばばばば死ぬううう」というメッセージを最後にLINEが途絶えた。生きて学校には来ている。

 沙紀はSNS自体不得手らしいのでいつも通り静か。

 真衣とはあの睨まれた日から個人LINEのやりとりがぴたっと止み、グループLINEで1回だけ詩織がテスト範囲を確認してきて、それに返してそれっきり。


 やりとりがなければないで勉強に集中!できるわけもなくたまにはネットサーフィンしたりもするけど、いつもよりは集中できている。気がする。


そんなこんなで、土曜日。

夕食後、天気予報を見ていた俊樹が「おっ明日は晴れるって」と言い出してから、結花はまた気分転換に走ろうかなぁ…と考え始めた。

 土日出かける予定もないし、ちょっとパン屋にでも寄りたい気がする。


 パン屋、パン屋で検索っと。


 いくつか検索結果が出た中から、母が好きそうなハード系のパン屋を選ぶ。いつも通る川べりから住宅地に入ったところ。坂の上にあるらしい。ちょっと走りもハードになるかな。


 「明日、朝走りに出るついでにパン屋さんで何か買ってこようか」

 「いいの?」母が光と積み木で遊びながら言う。

 「いいよ。あ、でもお金は出してね」「出すよー。明太子のったパンとか食べたいからよろしく」とのやりとりのあと、二千円を手渡された。

 「めろん、ぱーん!」と光が言うのでそれも言葉通りケータイに打ち込みメモする。俊樹は「僕適当でいいよ」とのこと。


 週末、楽しみができると金曜日の夜はいい夢見れる気がする。そう思っていたのにその日の夢は最悪だった。



 誰もいない学校。暗い廊下を走る。窓の外も真っ暗。後ろから紫色のぐちょぐちょ、ねちょねちょしたスライム状のものが迫ってくる。しかもしゃべっている。トイレ洗剤のCMで何度か聞いた、トイレの汚れのキャラクターの声。ねちっこく低い男の声だった。

 「勉強しろー」

 「うんちオムツ替えろ」

 「進路は決めたのかー」

 「また肌荒れてんぞ」

 「痩せろ」

 ぎゃー!と叫びたいのに声が出ない。角を曲がって階段に出る。降りようとしたら下からも迫ってくる。上に駆け上りスライムに捕まえられそうになり、また廊下を走り出す。

 走っているくせに全然速度が上がらない。廊下横の教室に詩織たちがいるのが見える。助けてもらおうとしてもイヤホンをしてアイドルの動画に夢中、沙紀は本を読んでいる。中に入ろうとしてもドアが開かない。廊下から窓を叩く。バンバン!と割れるんじゃないかと思うほど叩く。

 二人とも気づかない。


 スライムが迫ってくる。諦めて廊下を走る。角を曲がる。見覚えのある後ろ姿。

 「真衣!」

 なぜだか声が出た。真衣は微動だにしない。

もう追いつかれる。後ろを振り向く余裕もない。

 「真衣! 助けて真衣!」

 肩をつかみ、振り向かせる。

 無表情の真衣が口を開く。


 「私を見下したくせに」


 そこで飛び起きた。

 嫌すぎる夢だった。

 じっとりと汗をかいていた。


 深い深いため息をつく。

 大丈夫。私は大丈夫。あれは夢。

 瀬戸結花、16歳。私立高校の2年生。期末テスト前で憂鬱で肌荒れは……してる。鼻の横に小さいニキビができてる。でも、健康。家族に振り回されてるけど最近まあそれもいいかと思い始めた。問題なし。なしったら、なし!


 ふうう、ともう1回ため息をついた。

 自分では上手くやっているつもりでも、心はごまかせないのか、悪夢を見ることもある。その度に起きてから自分の現状確認をするのが結花のつねだった。


 やっぱり、真衣のことであんな夢見たんだろうな……。


 洗面所に降りて顔を洗う。

 ニキビは直るのを待てばいい。潰しちゃったっていずれは直る。でも、真衣とのことは期末テスト後がいいよと詩織に言われたからどうしようもなかった。LINEくらい打とうかしらと思ったけれど書いては消し、書いては消しで全然これといったメッセージが頭に浮かんでこない。


 時計を見ると6時47分。少し寝坊してしまった。6時半には起きて、7時の開店と同時にパン屋に入るつもりだったのに。

 とにかく走ろう。気分転換だ。

 結花は着替えて玄関を出た。準備運動。閑静な住宅街はもう日に照らされつつあった。三軒隣の家に犬を連れた老人が散歩を終えて入るところ。瀬戸家の斜め向かいで中年のご婦人がプランターの雑草を抜いてるところ。目が合ったのでぺこりと会釈して、結花は走り始めた。


 いつものコース、プラス、パン屋。

ウエストポーチにケータイと小さい財布。イヤホンからネットで流行りのアップテンポの曲を流す。



 君がそっぽを向いたって 僕は君に歌い続けるよ

 僕は君が必要で 君には僕が必要なんだ

 わかるだろ?

 お互い運命の人って感じてる

 離れられないし 離れるつもりもない

 照れてないでさぁ こっちを向いて

 笑顔を見せてよ

 ここから始まる2人のLove story



 歌詞はともかく、リズムは取りやすい曲だった。

 男性4人組のバンドだったはず。

 いつだったか、「ランキングに入ってるのってほとんど恋愛の曲だよねー」と何の気なしに沙紀に言ったら「たぶん、恋してると人は音楽聴きたくなるんだよ。思春期まっただ中の若者たちがそういう音楽を求めるから、恋愛の曲がたくさん作られてヒットしてランクインするんだろうね」なんて珍しく饒舌じょうぜつにしゃべっていたっけ。


 真衣に「なぁにー知った口聞いてー!沙紀ってば誰かに恋してるの?」と茶化して沙紀が否定したけど、真っ赤になっていたっけ。結局口を割らなかった。あれは春頃だった。桜の季節。


 次の桜の季節には、真衣と笑えているだろうか。


 考え事をしながらでも足は動く。

 はっ、はっという自分の息遣いがイヤホン越しに聞こえる。

 たん、たん、たん。足が規則正しいリズムを刻む。


 気づくといつもの橋の半ばにきていた。車の走行音がくもぐって聞こえる。前に人の姿はなし。


 後ろから何か迫ってくる気配がした。

 自転車のようだ。

 歩道の広さは追い越されるのに問題ないけど、右からくるか左からくるか、そのくらいは確認しないと避けられない。

 十分な距離をとるため少し速度を上げ、イヤホンを片耳だけ外して走りながら一瞬振り返る。外界の音がクリアに結花の耳に飛び込んできた。軽自動車が、トラックが橋を渡る音。そして、聞き覚えのある声が。


 「結花ちゃん、待ってー」

 結花は足を止めた。肩で息をする。

 自転車を漕いでいるのは、俊樹だった。

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