第10話 祖母と歩く

 結花が帰宅すると、祖母は今まさに玄関を出ようとしているところだった。

「おばあちゃん!帰るの?」

結花ゆいか


 祖母――水野京香みずのきょうか。この名前を知ったのも中学にあがってからだ。それまでずっとおばあちゃんはおばあちゃんだった。

 パーマをあてた短い茶髪は、白いものが所々のぞく。レンズが分厚い老眼鏡の奥で祖母は微笑んだ。


「久しぶりだねぇ」

「ゆっくりしていけばいいのに」

「子守り交代したからね。もう帰るよ」

 見ると俊樹の靴があった。おまけになんか台所でバタバタしてる音が聞こえる。

「お、お義母さんちょっと待ってくださいー!」

「見送りはいいよ」

 俊樹がガサガサ音を立てながらビニール袋を持ってきた。冷たく言う京香にもお構いなしで袋を突き出す。中には赤いものが2個。林檎らしい。

「すみませんこんなものしかなくて、今日はありがとうございました!」

「いいってのに」

「いやいやそんなわけには」

 しばらくやり取りがあった後、光が泣き出し(どうやら今まで寝ていたらしい)、その声に慌てて俊樹が袋を置き去りにまた寝室へと駆け込んで行った。

「また改めてお礼させてくださいー!」と捨て台詞のように言いながら。


「慌ただしいねぇ。まぁ小さい子がいるならしょうがないか。……光は2回くらい下痢したけど、思ってたより元気だったよ。ちょっと微熱があって昼寝してもわりとすぐ起きたりしたかも」

「ありがとう」

 玄関に腰掛け、ビニール袋をリュックサックに入れる祖母はなんだか前より小さく、細くなった気がした。

「駅まで送るよ」

「なんだい結花まで。いいのに雨降ってるし」

「久しぶりだから」

 確か、前に会ったのは正月だ。年々、会う機会が少なくなっている。

「ちょっとだけだから」

「いいのに」

 また俊樹と同じような押し問答をするところだったが、そこで結花のバッグの中でケータイが振動した。

「あ、お母さんからだ」


「ごめん昨日牛乳買い忘れてたの忘れてた!どっちか行けたら買い物行ってきてくれる?ついでに惣菜も!遅くなるから先に食べてて!」とメッセージ。「長谷家グループ」に流れてきていたので「私が行くよ」と返信する。既読1、がすぐについて「ありがとう」のイラストスタンプがくる。


 よくよく見るとその前に「お母さんへのお礼忘れてた!なんかあるかな?」とメッセージがきていた。俊樹とやり取りしていたらしい。気づかなかった。祖母がこちらを見上げている。


「こういうわけだから、駅まで送るよ」

 最新のやり取りを見せる。祖母は画面を遠ざけたり近付けたりしながらようやく文面を読んで、納得したようだ。


 そうして祖母と孫は傘を広げ、駅前へと歩き出した。駅まで徒歩10分。小雨が降り続いている。

「ごめんねぇ、ばあちゃんも何か作ってくればよかった。惣菜なんてねぇ」

「気にしないでよ、急だったじゃない」

 正直、祖母の料理といったら煮物や佃煮が多いので惣菜を買いに行けて良かったと結花は内心ホッとしていた。体にはいいのだろうけれど唐揚げとかコロッケとか、ガッツリ系の方が成長期の今は嬉しい。

「お母さん、仕事忙しいんだね」

「そうだね。でも前より遅くなるのは減ったよ。今日は明日休みとるために頑張ってるんじゃないかな」

「そう」

 母のフォローをしたつもりだができただろうか。


 昔は祖母の家に住んでいた時期もあった。父親が亡くなって、母が働き始めて。時期を聞いたことがあった。確か幼稚園から小学校に上がる前まで。とにかく母がドタバタしていた覚えがある。結花の記憶にあるのは和室から寝転がって眺めていた庭の光景、障子に開けた指のあと。近くにあったすべり台とブランコのある公園。


 祖父は料理人だった。帰りが遅く、あまり家にいなかった。いや、いたのかもしれないが結花とは生活リズムが合っていなかったのだろう。朝寝ている祖父を起こそうとして怒られた思い出ならいくつかある。

 その祖父も結花が小学生の時に死んだ。祖母はずっと専業主婦で、たまにパートに出るくらいだったと聞く。


 そんな環境だから、結花の世話をしていたから、バリバリ働く母が子供たちをないがしろにしているように見えて、文句を言いたくなるのだろうか。


 結花の心をよそに、祖母は「最近近所のフィットネスに通うようになったけどご近所さんと帰り道立ち話する方が長い」だとか「このへんはどこも似たような住宅地で来る時道を間違えそうになったのでタクシーを拾ったんだけどこの運転手さんがまたいい人で……」などよくしゃべる。


 雨のせいか外はいつもの夕方より早く夜になったようだ。雨は道路も家々も輪郭を濃く、はっきりさせる。ちらちらと横を見ると、祖母の顔はたまに車のライトに照らされ、しわの陰影が浮かび上がる。また皺が増えたかな。


 暗い中、ゲームのセーブポイントのように煌々こうこうと光る駅前のスーパーで買い物した。割引シールが貼ってあるコロッケと野菜のかき揚げ、弟にバナナとりんご(光はりんごのことを「ごっ」と言う)、ヨーグルトも買う。牛乳も忘れるところで祖母が話しかけてくれて買えた。 レジでSuicaを出すより祖母の五千円札が突き出されるのが早かった。最初から支払うつもりだったらしく息つく間もなかった。それまでスーパーの品揃えの方に気を取られていたように見えたから結花はすっかり油断していて、「いいよ、払うよ」と返そうにもレジの後ろには人が並んでいる。

 やられたぁ、と思った。


「ちょっとだけゆっくりしていこう」とチェーンの喫茶店に入った。今日の雨は体が冷える。京香はホットコーヒー、結花はカフェラテ。


 ほかの話に流れたら嫌だから、席について割とすぐ「おばあちゃん、俊樹さんにもうちょっと優しくしてあげてもいいんじゃない?」と言ってみた。

 祖母は黙った。結花はテーブルに立ててある期間限定のデザートのお知らせを見る。黒蜜がけわらび餅。沙紀が好きそうだな、と自分で自分の気をそらしているうちに京香のホットコーヒーから湯気が上っていく。


 おばあちゃんコーヒー冷めちゃうよ、私また余計なこと言ったかな。と思った時に返事がきた。

「結花は、何も不自由してないかい」

 そのあとに続く言葉は意外なものだった。


「最近はほら、児童虐待とかあるからさ。母親の連れ子に冷たく当たったり。そんなことないだろうと思っても近くでしょっちゅう会えるわけじゃないからばあちゃん心配なんだよ」

 ニュースなら結花も見ている。中には目を覆いたくなるようなひどい事件もある。

 けれど、それと俊樹とは結びつかない。

「大丈夫だよ」

「そこまで行かなくても、ぎくしゃくしたりしてない?」

「大丈夫大丈夫、なぁんだ、心配して損した。なんかもっと理由があったのかと」

 思った、と言う言葉は笑い声交じりになった。ホットカフェラテを飲む。甘い幸せが口いっぱいに広がる。


 先日光が2階に上がってきた時、寝室に連れていったときの俊樹の寝ぼけ顔を思い返す。

 新築の家に突然引っ越す、環境が変わると聞いて混乱した。「新しい父親が来てから振り回されっぱなしだ」と思っていた。確かに俊樹の(そして半分は母の)せいで結花の生活は変わった。


 でもその後、俊樹のことは見直すことになった。子育て経験のある晴香の言うことを聞きながら自分でも情報を集め、新米パパとして試行錯誤しながら頑張っている。結花のことも尊重し、脱衣所と結花の部屋に鍵をつけてくれた。そこまでしなくてもという晴香に「まだ他人が家に住んでいるようなもんなんだから、少しでも安心できる環境にしてあげたい」と話していた。バッグにつけている防犯ブザーを買ってきたのも俊樹だ。


 勤め先もこっちに印刷会社の営業所ができると聞いてすぐ異動届を出した。職場に近いところの保育園のリストアップもした。母だって結花が小学校入りたては連日連夜のように残業していたのが今じゃ嘘のように定時上がりで帰ってくる日が増えた。

 とにかく俊樹が来てから、光が生まれてから生活が目まぐるしい。


 ドラマを見ていると大人はとにかくスマートだ。仕事メインで話が進み、一晩中続く赤ん坊の夜泣きも、喧嘩して恋人と口を聞きたくない夜もCMを挟めば場面が変わる。

 結花の身近にいる人たちは、テレビと比べるのもなんだが、必死に生きている気がする。結花は行き先さえ決めいてない。気後れさえする。



「結花は新しいお父さんのこと、パパって言わないじゃないか、そんな俊樹さんなんて他人行儀な」

 一瞬ぼうっとしていた。京香はなおも心配そうな目を向けている。


「無理して呼ばなくていいって言われてるもの」

「ふうん」

「お父さんと呼べ、って強要するような人でなくてよかったよ」


 自分で言って気がついた。

 そうか、私、光のこともかわいいけど、俊樹さんのことも、それなりに気に入ってるのか。


「光にメロメロだし」

「そうかい。光は今朝私と会って、しばらくは上目遣いで遠巻きに私の様子をうかがってたよ」

「久しぶりだしね。また落ち着いたらこっちに来てよ。お母さんもゆっくり会いたいだろうし」

 祖母の顔が、ようやく「安心した」と語っていた。


「なんだか大人が言うようなことを言うね。結花はばあちゃんが考えてるより大人になってるんだねぇ」

「まだ進路も決まってないけどね」

「大学には行くんだろ」

「行くけど、どこ行くかまだわかんない」

 行き先はまだ。とにかく何かやりたいことが見つかった時に踏み出せるように、勉強はしておかないとと思ってはいる。


 祖母のホットコーヒーはあと一口。そろそろお互い帰らないといけない。


 急に祖母が身を乗り出してきた。

「ね、好きな人とかいないのかい」

「いないよー」

「ホントに?」

「もう、なんていうの、テレビのイケメンすらも最近『この人、結婚したら俊樹さんみたいに役所の手続きとか行ってくれるのかな』って思っちゃって」

 アハハ、と大口を開けて笑う祖母。店員がこちらを見てヒヤッとしたがまたすぐ手元の作業に戻る。


 喫茶店を出ると、ひんやりした。温かい飲み物にしてよかった。

 また会う約束をして、祖母とは喫茶店前で別れた。

 遅くなった、今から帰るよ、とLINEする。

「了解!光お風呂に入れたよ。帰り道気をつけてね」

 サムズアップする猫のイラストスタンプ。「気をつけて帰るのよ!」と母のコメント。次いで「もうそろそろ私も帰る!」と流れてくる。


 俊樹は、まだ父親とは思えない。普通じゃない関係だ。でも家族の一員として想いやっているこの一日一日を大事にしていこう、と思った。


 さて、帰って光の顔を見て、ごはん食べてお風呂入って勉強しなきゃ。


 結花は傘を握りしめ、早歩きで家に向かった。

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