第9話 停滞

「だから、ちゃんとやってるって!」

 母の声だ。1階の奥の部屋で話している。というか、ほぼ怒鳴っている。窓かドアが空いているらしく結花の部屋まで聞こえてくる。


「そういうとこ心配いらないから!俊樹君も仕事調整してくれてるんだよ!お願いするのも明日だけだから!」

 母が怒鳴るのは珍しい。職場ではどうだか知らないが、家ではひたすら明るく、光のイタズラにも「やっちゃったかー」と余裕で対応する母が、こんなにも激昂する。相手か誰だか結花にはわかった。

 祖母だ。晴香の、実の母。



 昨日、「光が吐いた」という連絡を受けても結花は真衣のことで頭がいっぱいだった。かろうじて帰宅した後、回らない頭で洗濯物を乾燥機に入れて、電気もつけないまま自室のベッドに倒れ込む。もう何も考えたくなかった。


 だが、落ち込んでいられるのもそこまでだった。


 ガチャガチャと音がして、1階が騒がしくなった。

 結花を呼ぶ声が何度もして、鬱陶うっとうしく思いながらも降りると、そこにはすでに臨戦態勢、と行った感じで気が立った母がいた。

「光、アデノウイルスだった。吐いたものから伝染するみたいだからいざと言う時はこれつけて!」

 ぽいっと、晴香がなにか投げてくる。見ればマスクだった。

「ただいま結花ちゃん」

 その後ろに俊樹がいる。「お帰りなさい」と言いつつ、俊樹が抱っこしている光に目が釘付けになった。首を俊樹の肩に預けてぐったりしている。「ねーね!」と笑ってくれる元気もなく目に力がない。


 結花はそこで我に返り、「何をしたらいい?」と聞いた。


 そこから母に指示されるまま、塩素系の漂白剤やら手袋を用意した。また吐いた時にこれで処理するということだった。洗濯も分けるらしい。そうしないと大人にもうつる病気だと俊樹が話してくれた。


 落ち着かないまま惣菜メインのごはんを食べ、光にはヨーグルトに薬を入れて食べさせる。普段おかわりするふりかけごはんも半分残したから結花は心配になった。

 一番騒がしい家族が静かで、テレビをつけても結花はそわそわした。言葉数が少ない光。録画していた子供番組を見せても反応が薄い。走り回らない。


 いつもは母と俊樹が協力して光のお風呂を済ませるけど、今日は母がお風呂入れをしたあとの光の世話を、結花は自ら申し出た。


 風呂あがりの光をまっさらなタオルで拭いて、オムツを履かせる。

「早く元気にならないかな……」とつぶやくと、

「ピークは3~5日だって。早く治るといいけど」と晴香が言う。

「キツそうだね……」

 家族に振り回されて嫌だ、と思っていたけどこの姿は胸に痛い。

 光にはなにも悪くない。小さい体で精一杯生きようとしている。


 自分も風呂に入り、光が寝たあと、結花はリビングでソファーに座ってぼんやりとテレビを眺めた。


 私、真衣だけじゃなく、光にもひどいことを言ってしまったんだな、と思った。友達3人に家族のことを話した時、結花は自分が言った「家族に振り回されて大変」という言葉を覚えている。


 普通じゃないから、大っぴらに家族のことを言えなかった。「可哀想」「みっともない」と思われたくなかった。


 でも、一番そう思っていたのは私自身だったのかな。


 真衣に、なんて言葉をかけるべきだったんだろう。

 思い返すと、真衣から家庭について聞いたことは1度もなかった。結花のように本当は家族のこと話したい、受け入れてもらいたいとすら思っていなかった可能性もある。

 こういうとき、相手にぴったりのことを話せればいいのに。そんなチートな能力が欲しい。


 LINE送ろうか、と思ったけど何が最適解かわからない。ケータイをいじっても答えは出てこなかった。

 悶々としたまま、眠りについた。



 翌日、日曜日。夜中熱が上がった光はうなされて寝なかったらしい。俊樹も晴香も寝不足顔だ。

 外は小雨が降っている。


「まま……」と力なく言う光をあやしながら皆で朝食をとり、さて明日以降光の世話をどうするか、という話になった。

「アデノウイルスは病院の登園許可書がないと保育園行けないのよ。ピークは5日と仮定して……水曜日か木曜日くらいに病院行く感じかなぁ。もう今週は保育園休んだ方が良さそうね」

 他の子にうつすのも怖いし、と母は髪をかきあげた。「病児保育は?」と俊樹が言う。

「さっきサイト見て、水曜日と金曜日はなんとか予約とれた。やっぱり流行ってるのよね」


 登園許可書に病児保育。どちらも光がいなければ縁のなかった言葉だ。登園許可書は病院で「この子は病気治ったので登園OKです」と証明するためにもらう書類、病児保育は、病気のとき親が休めないときに預けられる場所。しかし水金しか予約とれなかったということは。


「問題は月、火、木よね……火曜日は休むとして、月曜日はねー、どうしても休めないのよ」

「僕、木曜日は休めるよう調整しとくよ」

「忙しい時期にごめんね」

 毎週月曜日は俊樹も外せない会議がある、というのは前から聞いていた。

 さて、どうするか。


 親2人がうーんと腕組み(俊樹は光を間に抱えながら)してるのを見かねて、

「私学校休もうか?面倒見れるよ?」と言ってみた。

「それはダメ!」

 途端に有無を言わせぬ口調で母が言う。

「期末テストも近いんでしょ!結花には勉強する権利があるのよ!」

 俊樹がうんうん、と頷く。

「そこまではさせられないよ。学校は大事だ。……シッターさんとか探してみる?」

 後半は母に向けての提案だ。母はうーん……と唸り、頭をぐしゃぐしゃっとした後、決意の目をした。

「しょうがない……あの人に頼るか」

 そう言い出したのである。



 祖母との電話のやりとりは続いている。

 結花は自室で勉強していた。雨で出かけるのも億劫だったし、「勉強する権利」と言われてしまうと弱い。母は、光の妊娠出産が影響して、結花の成績が下がり志望校を変えたことを未だに引きずっている。


 それにしても電話の声、大きいなぁ。


 祖母は俊樹との結婚に反対していた。年齢差を気にしていて、「そんなに年上の女と結婚したいだなんて裏があるんじゃないか」「騙されているんじゃ」というのがその理由だ。二親が話し合いの末「晴香と結花の2人の名字が変わるよりは」と俊樹が山内姓ではなく長谷家に婿入りした形になったことも、「なにか怪しい」と言われて結果的に裏目に出ている。他のことでは仲良しな母と祖母は、俊樹の件に関しては未だに喧嘩が絶えない。


 リビングに降りると、俊樹が光を抱っこしたままスマホをいじっていた。

 結花と目を合わせると「もう少ししたら寝そうだよ」と小声で言う。

「奥の部屋ドア開いてるんじゃない?お母さんの声で光起きちゃうかも。閉めてくる」

 視界の隅で、そろりそろりと俊樹が寝室に光を連れていくのが見えた。


 ドアを閉めようとすると、母がちょうど出てくるところだった。

「聞いてた?」

「わざとじゃないよ、耳に入ってきたの。……おばあちゃん、どうだった?」

 ふう、とため息をついた晴香はほっとした顔を見せた。

「朝イチで来てくれるって。とりあえず明日は大丈夫ね。しばらく迷惑かけるけど、家にいて手が足りない時は手伝ってもらえると助かるわ」

 両手を合わせて「ごめんね」のポーズ。

「そんな、改まって言わなくても、いつもやってるじゃん」

 お願いされると照れくさい。

「イタズラされたら、こらー!って思うけど、光が元気ないと調子狂うよ」

「そお?結花はいい子過ぎるから」

 リビングに戻ると俊樹が「寝てるから静かにね」のジェスチャーをする。母は「ちょっとゆっくりしよう」と結花に麦茶を注いでくれた。


「光もだけど、結花も心配よ。たまには弱音も言っていいんだからね。溜め込むと良くないよ」

「ありがとう」


 包み込むような母の言葉。

 自分だけが不幸な気がしていた。けれど、母も俊樹も光のことはもちろん、結花のことを気遣ってくれている。

 両親のことを暴走列車だと思っていたけど、たまに駅に止まって後ろに連結された結花のことも気にかけてくれていたらしい。


「暴走列車じゃなかったんだなぁ」

「なんのこと?」

「ううん」

 俊樹が台所をがさごそしているな、と思ったらクッキーを出してきた。

「結花ちゃん、まだ光が小さいし振り回されるけど、学校のことも家のことも、愚痴だってなんだって言っていいんだからね」

 照れくさくなって「はぁい」と間の抜けた返事をしてしまう。

 両親はどちらかが買い物に出ようと話し始めた。


 私も何か出来ることないかな。

 2人とも寝不足みたいだから、自分が光を見てる間、昼寝でもしてもらおうかな。


 そっと寝室に入り、布団に寝かされている光の様子を見る。

 羨ましくなるほどの長いまつ毛、ぷにぷにのほっぺた。心なしか眉間に浅いシワが寄っている気がする。おでこにそっと触れた。やはり微熱があるようだ。

「はやく良くなるんだよー」

 小声でささやく。


 リビングに戻り、ふと窓の外を見て結花は気づいた。

「あ」

 母が視線の先を追って、にっこりする。

「雨やんだね」

 外には冗談のようにキレイな虹がかかっていた。



「し~お~り~!!」

「うわっなに結花ちん、顔こわいよぉ」

「詩織がおしゃべりのせいであの後大変だったよー!」


 月曜日、朝祖母が来てすったもんだあったものの、結花はいつも通りに登校した。そして教室にいた詩織に八つ当たりしてみた。

 こういうとき、同じクラスは厄介だ。真衣が参考書片手に課題をやっているのが見える。


「ちょっと顔を貸してもらおう」と冗談めかして言いながら詩織を廊下に連れ出した。そこで登校してきた沙紀と出くわす。

「あー沙紀、おはよー!たーすーけーてー!」

 詩織が手を伸ばすも、

「おはよー、生きて帰れよ」

「つれないぃ~」

 沙紀は我関せずと言った具合にスマホを見ながら教室に入っていった。


 廊下の隅で、詩織に土曜日の真衣とのことを話した。詩織から真衣のことを聞いたから、事がややこしくなった、その八つ当たりが四割。あとの六割は話を聞いてもらった上でどうしたらいいか相談したかったのだ。


「そんなことがあったのかー、ごめんねぇ」

 ちっとも悪く思っていない様子で詩織は言う。ウェーブのかかった髪を、くるくると指でいじっている。

「詩織から余計なこと聞かなければ、喧嘩にならずに済んでたのかもしれないんだよー!もう」

「えー喧嘩も私のせいなのー?そりゃないよーう」

「ふざけてるんかーい」

 ほっぺたを両手で挟み、上下に動かしてみる。

「ひゃめてよぉ」


 おお、光のには負けるけど感触のいいほっぺた。

 たまには触らせてもらおう。……じゃなくて。


 結花は手を離した。詩織はようやく真面目な顔になる。

「結花ごめん。私これからもこういうことあるかも」

「は?」

 思ってもみない方向からボールが飛んできたような衝撃。結花はきょとんとした。真衣のことを話していたのに急に詩織の話になっている。しかもこれから先のことを謝罪された。なぜ。


「どういうこと」

「私、マジな話隠し事ホント苦手でさ、無理なんよ」

 詩織のほわほわした雰囲気と裏腹にひどく早口だ。

「これまでもトラブルになったりしたんだけど、聞いたことを内緒にってのは重荷すぎてさ、誰かに話して楽になりたくなるの。もう全部話しちゃう」

「そう……なんだ」

 結花は先日、詩織からのLINEを思い出した。

 おしゃべりな子だなと思ってはいたけれども。


「内緒だよ」と耳打ちされるひそひそ話は、内緒であった試しがない。大体バレて後で気まずいことになるから、もう最初から「他の人にしゃべっちゃうから」と相手の口を塞ぐか、墓場まで持っていく覚悟を決めて聞く。

 などと母、晴香はよく愚痴っていた。


 推しへの熱い愛を語るし、勉強の愚痴も話す。あっけらかんと次から次に色んな話をする詩織はその分トラブルがあったという。それは結花に推し量ることはできない。彼女とは高校で出会ってまだ1年半にも満たない。


 でも結花は詩織が好きだ。自分の好きな物にまっすぐ愛情を向けて大っぴらにしている。彼女が話す時に自分にはないおおらかさ、広い世界を感じる。


 だから詩織に「自分に正直ってことで、いい事だと思うよ」と言ってみた。

 こわばっていた顔が魔法のようにふにゃふにゃと溶けた。詩織はいつもの顔に戻る。

「ありがと!あ、でもそんな訳で本当に秘密にしたいことは私には話しちゃダメだよ?へへっ」

 何が「へへっ」だ、変なやつ、と思った。それがそのまま口に出てしまって結花はぽかぽか叩かれた。わあわあ騒ぐ横を冷たい目をしながらクラスの男子が通り過ぎていった。


 何やってるんだこいつら、とか思ってるんだろうな。私もそう思うけど。


 不意に笑い声が途切れる。こういうの「天使が通り過ぎた」って言うんだっけ。沙紀が言ってた気がする。改めて聞いてみた。


「……私、真衣と話すべき?」

「何話したいか決めてるの?」


 うーん、と詩織は唸る。

「真衣はプライド高いよ。ただ謝るだけなら納得しないと思う。あと来週の期末テスト終わるまではピリピリしてるから近づかない方がいいよ」

「そうかぁ」


 本当は今すぐ仲直りしたいんだけれど。でも真衣との喧嘩は、「家のこと話して受け入れてもらいたい」という完全に私のエゴが突っ走った結果だ。


 期末テストも、私と真衣とではとり方が違う。真衣は結果によってはトップクラス行きの話が固まるのではないだろうか。大事な時期なんだ。


「お前ら席につけ、ホームルーム始めるぞ」

 担任が廊下の向こうから歩いてくる。あちこちにいた生徒たちは蜂の子を散らすように教室に戻る。

「詩織、ありがとう」

「こちらこそ、ありがとう。受け入れてくれて」

 追い立てられるように急いで言葉を交わす。


 普通の人よりおしゃべりでなんでも話してしまう。詩織が抱えていた悩みは、結花にとっての秘密と同じように、打ち明けるのにすごく勇気がいったのかも。

 そう思い至ったのは着席してホームルームが始まってからだった。



 お昼。真衣は一緒にお弁当は食べたけれども当たり障りのない会話をしてさっさと図書室に行ってしまった。

「うちらも行く?テスト近いし」

「うーん、行くんなら真衣みたいに真面目にやってる人の邪魔したくないしなぁ、ここでいいや」

 どうせダラダラやるのは目に見えている。三人はそれぞれ弁当箱を片付けて、机に教材を取りに行った。その最中。

「結花さぁ、来週の期末テスト終わったらうちに遊びに来ない?詩織も来る予定」

 沙紀が誘ってきた。珍しい。普段はこういうとき、真衣が声をかけてSNSで話題になってるようなところ――つまりほとんど街中で遊ぶのが常だった。


「真衣は?」

「誘ったけどやっぱ忙しいって」

「そっか……」

 それでも、友達の家に行くなんて久しぶりだ。心が踊る。

「まあ、それはテスト後の楽しみにして、まず勉強しなきゃねー」と詩織が言って、「へーい」と沙紀も結花も気のない返事をしたのだった。


 進路が決まらない中でも、家族の具合が悪くてもテストは容赦なく迫ってくる。教科書を開き、ふと光のことを想う。


 普段なら保育園でお昼ご飯のあとのお昼寝だ。今日は祖母がなにか作ってくれたのだろうか。ちゃんと食べたかな。下痢しなかっただろうか。

 祖母も朝早くから出てきてくれている。まっすぐ帰ってバトンタッチしなきゃ。

「結花ちーん、手ぇ止まってるよぉ」

「はい、気合い入れますー」

 笑い合い、テスト範囲の復習にかかった。


 考えることがたくさんある。


 真衣と仲直りするために、何が必要だろう。勉強より難しい。

 せめて彼女がトップクラス行く前に仲直りできたら、と思いつつ、結花はシャーペンを走らせた。

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