第12話 白髪とフランスパン

 坂の上に、昨日検索したパン屋が見えてきた。

 この坂の傾斜は画面上の地図ではわからなかった。なかなかにきつい。

「もうちょいだよーがんばれー」と後ろの俊樹に声をかける。

「ぐぬぬぬぬ…」

 家にあった自転車は変速ギアはついていても電動ではなかったようで、しばらくプルプルと堪えていた後、俊樹は諦めて自転車を降りて押し始めた。背後には渡ってきた橋が下の方に小さく見える。景色がいい、梅雨の晴れ間の朝。

 若い父親は「やばいな、体力落ちてるな…俺…」とブツブツ言っている。


 なんか部活みたいになってきた。うーん、でも「先生」「監督」というには貫禄かんろくが足りないかな、普通この立ち位置も逆だしな、なんて上から目線。



 橋で結花に追いついた俊樹は「一緒に行くよー」と言ってついてきた。女子高生1人歩きが心配だったのだろうか、そんな夜に出歩くわけじゃないし大げさな……と思ったけどどうやらパン屋にも興味があったらしい。


「あんまりこのへん来ないから新鮮だね」なんて言いながら駐車場の隅に自転車を停める。開店から10分すぎ。6台の駐車スペースは残り1台分残して埋まっていて、なかなかの人気店のようだ。パン屋独特の美味しそうなあったかい香りが漂ってくる。幼稚園くらいの女の子がお母さんに手を引かれて店内に入っていく。


「いらっしゃいませー!カレーパン焼きたてですーいかがですかー?」

 焼きたて、の言葉に誘われてすぐに俊樹がトレイにカレーパンを入れる。結花がメモしていた明太子パン、メロンパンも。

「あとなんかリクエストされてたかな?」と聞かれたので、「適当に好きそうなの買えばいいんじゃない?」と言って、結花も物色する。目の端で見ると、フランスパンの前でうーん、と唸っていた。


 フランスパンは母の好物だ。

 こういうところ、本当に気が利くなぁ、と結花は思う。

 母が妊娠してから出産や子育ての体験談をネットで読むようになり、ケータイにはそれまで検索した音楽や映画のニュースに並んで主婦層をターゲットにしているであろう記事が流れてくるようになった。勉強になる反面、「旦那が勝手に余計な高いもの買ってくる」だの「いつまでもマザコンで困る」「妻を自分の母親のように扱わないで」などなど、愚痴が元になった記事も多い。


 そんなものばかり読んでいると、俊樹のような父親はだいぶマシな部類なんだなと思うようになった。

 最初の印象はもう母と一緒の暴走列車だったけれども、基本的に穏やかだし酒を飲みすぎて荒れることもなければ(むしろ母の方が酒量は多い)、タバコも吸わないしギャンブルもしない。仕事仕事で家庭をないがしろにしたりしない。

 晴香のことも、結花のことも対等に扱ってくれる。そんな男性、今の日本ではだいぶ貴重なんじゃないだろうか。


「結花ちゃん、何にする?」

 ぼうっとしていたら俊樹が近づいてきた。にこにこしている。結花はチキン南蛮が挟まったコッペパンとくるみパンを選んだ。


 レジの列に並ぶ私たちは、どんな関係に見えているんだろうか。親子と思う人は少ないだろう。親子と思うには年が近すぎて、友達というには離れすぎている。兄妹?まさかの恋人?


 レジ係はそんなこと知ったこっちゃないのか、テキパキとパンを詰めてくれた。


 お店が気に入ったのでポイントカードも作った。ちょっと遠いけどまたここに来るよ、と約束が形になったようで嬉しい。


 行き帰り走るつもりだったけど、帰りはパンがあることを失念していた。

 カゴにパンの袋を載せると、「これだけ急な坂だとスピード出て危なそうだからな…」と俊樹が自転車を押して歩き出す。


「結花ちゃん、走ってもいいんだよ」

「いいよ、歩くよ。たまには俊樹さんにインタビューしたい気分」

 ふざけてそう言うと「えー何それー」と満更でもない笑みを浮かべた。「はい、じゃあどうぞ!」なんて言いながらおどけて片手を上げる。


「えっと、じゃあ……どうしてお母さんと結婚したの?」

「おおう初っ端からなかなかヘビィーな…朝からする質問かな、それ」

「いいじゃん」

 照れくさそうだ。普段のノリのいい明るい俊樹は、だいぶ母に合わせているのではないだろうか、と思う。


 大人はいろんな面を持ってる。母だって光、結花、俊樹、会社の人、祖母、近所の人…と態度が全部違う。そういえば、俊樹が会社の人としゃべってるのは聞いたことないな。


 もうすぐ下り坂が終わる。登る時はきつかったのに下りるのは早い。赤信号に差しかかる。小石を踏んだスニーカーの下でジャリ、という音がした。その時考え込んでいた俊樹が口を開いた。


「なんて言えばいいかな…元気で明るいところとか、姉御肌で頼りがいがあるところ、意志の強いところ…いろいろ晴香さんの良さはあるんだけど、最初の決め手はフランスパンかな」

「は?」

「いや、仕事で知り合った時ね…」


 俊樹は出会った頃のことを話し始めた。



 取引相手の晴香とは、それまで何度か複数人を交えて会ったことがあり、そのころは仕事のできる美人、くらいにしか印象に残っていなかった。

 頼まれた印刷物に不備が見つかり、仕上がりを急ぐというので帰りがけに晴香の会社に寄った時のこと。


 印刷物を残業していた社員に渡して、休憩コーナーの自販機でコーヒーを買おうとした時、先客がいて、それが晴香だった。

 こちらに背を向けて電話中だったが、聞き覚えのある声で「取引先の営業部の瀬戸係長」だと思い出した。

 後ろ姿をまじまじと見るのは初めてだった。綺麗にまとめてある髪の生え際に白髪が2本、3本。


「ごめん、もうちょいかかるわー。もうご飯食べた?ならよかった。…ん?大丈夫私も食べてるから。会社近くのパン屋。あ、明日の朝の分まで買っておいたから」

 座っている椅子の前にはフランスパンが丸々1本置いてあるのを見て俊樹はちょっと驚いた。あの人、何もつけずにあれだけ食べてるんだろうか。

 おまけにそのまま齧ったと思わしき跡が残っている。かなりワイルドだ。仕事の打ち合わせでは上品に振舞っている女性の意外な一面が見れて興味をそそられた。


 しかし盗み聞きしているようで悪い気がする。電話の相手は旦那さんだろうか、と思いつつコーヒーを買う。缶が下に落ちるガタンという音で晴香がこちらを振り向いた。フランスパンを齧ったところだった。きょとんとした表情がプライベートから仕事に切り替わっていく、その顔がコマ送りのように目に焼き付く。


 俊樹の全身に「この人だ」と天啓てんけいが下った。

 この人と話をしたい。この人と一緒にいたい。ずっと一緒に生きて行きたい人を、今、見つけた。


「あ、山内さん。こんな時間までお疲れ様です」「いえいえ、瀬戸さんこそ」

「やだ、みっともないところを…いやー、フランスパン頭からいくのいい感じにストレス解消になるんですよねへへへ」

 屈託のない笑顔に心臓を鷲掴わしづかみにされた。

「そう……なんですか」

 会話を交わしつつも山内俊樹はどうやって親しくなろうかと頭をフル回転させていた。

 仕事ではなく、自然体のあの顔を、欲を言えばさっきみたいな笑顔を、まだまだ見たい。


 一目惚れ、というやつだった。



「それから旦那さんだと思ってた電話の相手は結花ちゃんだったってわかるまですごい悩んだり、デート誘ったり最初は遊びだと思われてたり、色々あって今に至るんだよねぇ」

 しみじみしながらしゃべる俊樹。きっと脳内には今までの出来事が走馬灯のようにフラッシュバックしているのだろう。

 素敵な思い出に朝から酔っているのか、目を細めて機械的に自転車を押している。もう橋を渡りきろうとしていた。はいはい、と軽く相槌あいづちをうつ。こちらの予想の数十倍も惚気のろけられてしまった。


「好きなのはわかった。フランスパンが決め手なのもわかった。でも普通、結婚するってなったら自分より10も年上のシングルマザーって選ばなくない?そこは迷わなかったの?」


 普通は、そんなに年の離れた人を選ばないだろう。

 普通は、反対されるだろう。

 世間からこそこそ言われるような真似を進んでやった俊樹。ある意味結花にとって真衣よりわからない存在だった。


「そこは、迷わなかったな」

 過去の決意が今ここによみがえったかのように、はっきり、力強く俊樹は言い切った。


「晴香さんが光を妊娠してることがわかったってのもあるけど、僕は『一回り以上年上のシングルマザーと結婚する』とか、『取引先の人と結婚する』とか、そんな世間一般的なことを考えるよりもただ一緒に居たくて、その手段が結婚だったんだ。上手く言えないけど」

「とにかくお母さんと一緒に居たかった、ってこと?」

「そう」

「言い切るなぁ。普通もっと恥ずかしそうに言うところなんじゃないの?」


 こっちが照れる。まともに顔を見ることすらはばかられる。結花は住宅街の家の外壁やら植え込みやら、大して興味はない景色をなぞる。

「だって一緒に居たいってのは僕にとっての当たり前だから。むしろ堂々と言えるよ。ここら一帯に聞こえる声で怒鳴ったっていい」

「それはやめて」

「冗談だよ」

 ははは、と笑う。


――こんなに愛されて、うちの母は幸せだな。

 私も、いつかこんなふうに強く誰かを愛しく想う機会があるのだろうか。


 日がどんどん登っていく。行きのランニングでかいた汗はもうすっかりひいていた。

 俊樹は続ける。

「結婚の報告したとき、シングルマザーとできちゃった婚ってとこだけ耳ダンボにして聞いてて根掘り葉掘り聞いてくる人もいたけどさ。なんか設定みたいじゃん。キャラクター?みたいな。枠にはめて偏見持ってやいやい言ってくる人もいて、それが仲良く仕事してきた仲間だったりするから一時人間不信になったな。『そんなんじゃなくて、僕は僕の愛した人と結婚するんです!』って1回社内で怒鳴るシュミレーションまでして……結局しなかったけど」

「しなくて正解だよ」

 結花は少し呆れたけど、嬉しかった。母をそんなに想ってくれていて嬉しい。

 一方で気恥ずかしさもある。身内の恋バナって照れるもんなんだな、と知った。

「幸せにします、って言葉。あれも結婚を意識し始めた頃から嫌いになったな」

 今日の俊樹はよくしゃべる。もはや結花に言っていると言うより自分に言い聞かせているようだ。


 大人は完璧で、どこも欠けていない球のようなイメージだった。子供の頃はいびつでも、やがて経験と共に丸みを帯びて綺麗な球になるのだと。夢を見つけて、進路を決めて、仕事をして一人暮らしもすれば、立派な「大人」になると思っていた。


 でもそうではないらしい。普段聞くことのない俊樹の愚痴を聞いて、結花は奇妙な安心を感じていた。大人も完璧じゃないんだ、という共感と、大人になってもまだどこか欠けているんだ、という少しの落胆と。


「幸せにしますって上から目線だよね。別に僕に幸せにしてもらわなくても当時から晴香さんは幸せそうだったし。……僕は自分が晴香さんや光、結花ちゃんを幸せにできるとは思ってないけど、僕がいることで幸せを感じてもらえたらいいなと思ってるよ」

 何が違うんだろう、と思ったのが顔に出てたらしく、俊樹は慌てた様子で言葉を足した。


「皆の人生はそれぞれ自分のものだからね。日々同じように一緒にいても、実際は人生がそのとき重なり合っているだけだ。ずっとそばにいることはできない。幸せにする、幸せにされるなんて一方的な関係じゃなくて、幸せって本人が身のうちから感じることしかできないんだ。

 たくさんの人に囲まれてちやほやされても孤独を感じている人もいるし逆もしかりさ」

「……なんか、寂しくない?結局それぞれ自分次第ってこと?」

「つまるところ、この世は自分が感じるようにしかできてないからね」

 少し突き放したような俊樹の言い方に、重苦しいものを感じてしまう。

「人の気持ちってのは、変えられないのかな」


 真衣の想いは、結花では変えられないのだろうか。

 できれば前のように、いや以前より絆を深めて仲良くなりたい。

 しかしそのためには一度は話し合わないといけないだろう。気が重い。そして俊樹の話では、再び仲良くなれるかどうかは真衣がどう思うかにかかっている。


 100%確実に、自分の気持ちを相手が受け入れてくれる手段があればいいのに。


「人の気持ちを自分の好きなように変えることは出来ないけど、変わるように行動するのは意味のある事だと思うよ。

 ――人生の面白いところは、もし誰かと喧嘩しても仲直りできること。それができなくても、長く生きていれば喧嘩の意味も変わってくることだと僕は思ってるよ」


 真衣と喧嘩したことを言っているのだ、と感じるのに少し時間がかかった。思わず俊樹の顔を見上げる。


「私、友達と喧嘩したって言ったっけ」

「見てればわかるよ。携帯の画面見てはため息ばかりついてる。恋愛の悩みなら君は晴香さんに言いそうだ」

 そうだ、そうだった。

 悩んだ時、私は母に相談する。それをしていないのは、この喧嘩の原因が家庭環境の違いにあるからだ。母には話しにくい。無意識に相談していなかったことに、俊樹は気づいたのだ。

「……俊樹さん、よく見てるんだね」

「家族だからね。さて、自転車を直してこよう」

 話に集中していたらもう家の前に着いていた。

 駐車場の奥に俊樹が自転車を停める間、結花は家の

 鍵を開けて待っていた。俊樹がパン屋の袋を手に歩いてくる。

「いや、今朝はなんか一対一になるのが珍しくて話し込んじゃったな……もしなにか話したくなったらいつでも言ってね。僕も間違うことあるしベストな解決法は出せないかもしれないけど、話聞くことはできるからさ」

「……ありがと」

「さて、晴香さん起きたかな」

 さんざん惚気のろけけたくせに今頃照れ隠しのように言って、俊樹はドアを開けた。


 遅くなったので心配したが、光は今日はお寝坊らしい。晴香がアイスカフェオレを用意してくれていた。久々に朝ゆっくりできたわー、とにこにこしている。

「そういえばさぁ、夏休み中に三者面談あるんだよね、いつだっけ?」

 すっかり忘れていた。頭は期末テストのことでいっぱいいっぱいだった。慌てて2階からプリントを持ってくる。階段を降りる途中、母は母でよく私のこと見ているなと思った。

「これ、日程は決まってて、都合悪い時は変更受け付けますって。大丈夫?」

「水曜日かぁーまあ大丈夫でしょ」と母は言う。

「僕が行ってもいいかな、結花ちゃんは家でもいい子ですってアピールするよ」

 俊樹はぐっ、と拳を握る。気合い入ってます、のアピールらしい。

「えっやめてよ小学生の家庭訪問じゃないんだよ、進路とか話し合う場だよ」

「家での様子も受験に影響するよー大丈夫しっかりフォローするから」

「えええ」

 母はフランスパンを頭からガリッとかぶりつきながら何事か思案している。カフェオレで流し込んだ後、口を開いた。

「俊樹さんがやる気なのはいいけど私も行きたいしなぁ」

 そのあととんでもないことを言い出した。


「これ両親がついてきちゃダメなの」

「四者面談になるじゃん」

「いいじゃん」

「えええ」

 両親に挟まれて先生と面談するイメージが脳内に浮かんだ。気が進まないが「先生に聞いてみてよ」と押し切られた。今日はどうしようか、買い物でも行こうかという話題に移り変わってゆく。ああだこうだ言いながら三人でパンを食べた。


 窓から差し込む明るい光。三人分のカフェオレ。皿も出さずに各自袋から直接パンを食べてるのはおしゃれとは程遠い。パンケーキを何回も撮影したこの手でくるみパンを無造作にちぎっている。

 けれど結花は不意に「きっとこの光景はずっと先まで覚えている」という予感にとらわれた。人生でふと思い出される印象的な1ページに、光がいないifのような朝の光景がたった今保存された、と感じた。


 あまりおいしくなかったスーパーのお惣菜、その値引きのシールの赤と黄色の配置。

 暗くなる中1人で留守番しながら流し見していたテレビ。

 俊樹が来た日の日曜日の揺れるカーテン。

 ドラッグストアで目を奪われたセールのオムツ。

 真衣が去っていった駅の構内。

 どれもこれも、結花を構成する1ページだ。

 なぜだか不意に涙が出そうになって、瞬きをする。


 俊樹がカレーパンを頬張りながらつぶやく。

「静かな朝でいいね」

 同じことを思った。心を読まれたみたいだ。

 その途端、俊樹の言葉がフラグだったかのように扉の向こうから声がした。

「ままー!ままー!」

「ここだよ、光」

 晴香が迎えに行く。寝室から手を引かれて戻ってきた光は、ちょっとぐずって今にも座り込みそうだ。まともに歩いてもいなかったのが、テーブルの上のメロンパンを見つけて目を輝かせ、駆け寄ってくる。

「めろん、ぱーん!」

 居間中に響き渡る大きな声。みんな笑顔になる。

「はは、よく言えたね光!」

「ご機嫌よくなっちゃってー!とりあえず顔洗いに行こうか」

「私、連れて行くよ」

 結花は光の小さな手を引いて洗面所に連れて行く。

 本当に、奇跡のような平和な朝だ。

 きっと忘れないだろう。

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