第39話 うちにおいでよ

「いや実は、父親の浮気が発覚してさ」

「ええっ」

 大きく反応したのは結花だけだった。詩織はソフトクリームに夢中だ。

「母親がそれで実家に相談して、おじいちゃんおばあちゃんも乗り込んできて何日か話し合いしてたんだよね。結果的に離婚はしないことになったけど父親が小さくなっててさ。今過ごしやすいよ」

「そう、なんだ……」

「他の家族に強く当たったのも、後ろめたさの裏返しだったみたい。迷惑な話だよね。今度は母が強くなって、明るくなってる。本格的に料理に凝りだして、はっちゃけて……あんな人だったんだなって新鮮」

「へぇ」

 真衣を取り巻く環境が変わっていることに安堵した。結花には、家庭まではどうすることもできなかった。自分に安心できる家庭があるように、真衣にもそんな場所、いや一緒にいて安心できる人がいればと、ずっとそう思っていた。


「兄貴も、大学中退してどうなることかと思ったけど、今は友達の小さい会社手伝ってる。たまに帰ってくるけど楽しそう」

 沙紀がコーンを包んでいた紙を広げて「よかったね」と言う。

「いろいろあるねぇ」

「いろいろあるよ」

 真衣は背伸びをした。

「でも、あと何年かしたらうちを出て、お金を稼いで、自分の力で生きていけるんだって思ったらホント楽になった。病院継いだら、あとはやりたいようにやるよ。ま、そこに行きつくまでが大変なんだけど」

「真衣ならできるよ」

 結花の言葉に、真衣の横顔は照れくさそうに微笑んだ。

「ありがと。……結花はどうなの? 塾も行き出したし、将来の目標決まったのかな、ってあたし聞きたかったんだけど」

「私?」

 ええと、と考えながら結花は不意に泣きそうになった。あの、重苦しい日々を抜けて、真衣がなんでもなさそうに話を振ってくれるのが嬉しかった。

 遠くで小さい子が母親とはしゃいでいる。心の底から楽しそうに笑い声を上げている。目に入った時、言葉が自然と出てきた。


「まだ全然固まってなんだけど、弟が言葉がゆっくりで、保育園とは別に、サポートしてくれる施設に通うようになって……そういう福祉関係? に興味が出てきたかな」

 すう、と息を吸い込む。皆が自分の気持ちをこれまで話してくれたように、結花も形だけではない友達になりたかった。だから伝えよう、と思った。

「子供のうちは周りと壁を感じて、うまくいかなくて、自信をなくしたり後ろ向きになったりするから。そういうとき『大丈夫だよ』って言える心と、専門的な知識があったらいいのかな、って」

 

 おしゃべりな詩織も、結花が言っているのは真衣とのこともあるだろうと気付いただろうに、今回ばかりは何も言わなかった。沙紀も。

「――なんて、まだまだ知らないことばっかりだけどね。こないだまで親が歳の差婚だから、弟と年が離れているからって引け目を感じていたし」

「結花、そういうのなんて言うか知ってる?」

「え?」

 真衣と視線がぶつかる。その目は笑っていた。

「井の中の蛙っていうのよ」


 嫌な感じはしなかった。「カエルかぁ」と結花がつぶやいた後に、「ゲコゲコ~」と詩織がふざける。

「あ……今変な想像しちゃった」

「どしたの」

 真衣は両手で頬を押さえていた。「教えてよ」と沙紀は続ける。

「その、カエルが井戸から出て他の井戸のカエルと仲良くするのもいいな……って。わぁー! ごめん自分で言ってて違和感! すごいメルヘンチック! 私じゃないみたい」

 これまでにない表情。真衣の顔は真っ赤だ。

「真衣かわいい」

「うるさいよ詩織。ああ、言うんじゃなかった……」

 二人のやりとりを見て、結花は微笑んでいた。中学からこんなやりとりしてたのかな。「面白いね」と沙紀に目配せすると、質問を投げられた。


「ねぇ、それに続きあるの知ってる?」

「続き?」

「『井の中の蛙、大海を知らず。されど空の青さを知る』っていうの。大海を知れば世界が広がる。でも狭い世界だからこそ深く知れることもあるんだよ」

 ふざけていた真衣と詩織が静かになる。沙紀の声はやや低く、でもはっきりと空気を震わせ、皆の心に染み込む。

「私達、まだ学生だけど、大人になったらもっと世界は広く、深く広がっていくよ、きっと。楽しいよ」 

 沙紀の微笑みが前より素敵に見える。以前だったら自分にないものを持っている自信の表れのように見えていたかも。でも今は、自分に持っているものを素直に受け入れて、大事にしているから素敵に見えるんだと気付けた。うらやんでばかりでなくて、よかったと思う。


 そして結花は、もう一つ皆に打ち明けることにした。

「ねぇ皆、今度うちにおいでよ」

「結花の家? いいの?」

「うん。両親も友達の顔見たい、って言ってる」

「友達」と言う時に真衣と目が合った。

「いいねぇ! 結花の若いお父さん見たい。生お父さん」

「生って」

 詩織は目をきらきらさせている。

「あたし、光君にも会いたい」

「かわいいよ、色々やらかすけど」

 つい昨日もクレヨンで落書きして、床も壁もすごいことになった話をすると三人とも「いやー自分だったら大変だけど」「人のことだと面白いわ」と好き勝手言って笑い、結花はふくれっ面になった後、やっぱり笑った。楽しかった。


「ところで、そろそろ帰らないとまずくない? バスの本数あんまりなかったような……って、あ!」

 真衣が「あのバス!」と指を差す。行きと反対方向から来たバスが、ちょうど停留所手前で信号待ちをしていた。間に合うかどうか微妙な距離だな、と結花は思ったけど、真っ先に真衣が階段を上り始める。


「走れー!」

 珍しい真衣の大声に、遅れた三人は一斉にスタートダッシュする。

「青春、って感じだね」と沙紀が言って、一番後ろできゃははは、と笑う詩織の声が追いかけてくる。


 結花は横断歩道にさしかかった真衣に追いついた。

「真衣!」

 親友が横を向き、笑う。この笑顔を、この夏を、きっと忘れない。

 心に刻む。



「ただいまー」

「ねーね! かえりっ!」


 ドアを開けると弟が走ってきて出迎えてくれた。

 光は意味もなく、廊下を走り回ってきゃはきゃは笑っている。

 産まれたてはふにゃふにゃだったのが、身体の使い方を覚え、力強く地面を蹴り、小さな頭で考えて大人が思いもよらないことをやってのける。今はまだ、常識も礼儀も関係ない。世界全てが光の遊び場だ。

 細胞の一つ一つがきっと大人なんて比較にならない速さで分裂し、1日1日大きくなっていくんだろう。見るもの全ての意味がだんだん頭に染み込んでいく。言葉が蓄積される。成長が早い。


 足にしがみつかれて「こーら」と言いながら、頭をなでる。

 私の中身もそうなんだろうか。成長期も終わったし見た目はあんまり変わらないし、人間関係ではすぐ傷つくし、傷つけるし。もうやらないと心に決めた過ちさえ、また繰り返して、光より成長していないんじゃないかと思うこともあるけど、

 それでも、去年と今年の私は違うと信じたい。欠けていても普通でなくても人と壁があってもいい、幸せを感じられれば。

 

 むぎゅ、と柔らかいほっぺたを両手で包み込み、つぶらな瞳を見つめる。

「よーし、お姉ちゃん光に負けないくらいがんばるからね」

 何を、とはまだ言えないけれど。

「えいえいおー!」と弟は返してくれた。

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欠けてる私たち 蒼生光希 @mitsuki_aoi

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