第4話 約束

「サイアク……」

 つぶやきながら駅までの道を走る。朝の光がまぶしい。夜中また雨が降ったらしく、小さな水溜まりが目につく。ぱしゃん、と雨水が跳ねる音を置き去りにして結花は走る。


 昨日は俊樹がケータイの充電器を貸してくれた。母は「ダメだよー結花お姉ちゃんのだいじ、だいじだからねー」と言ってくれた。

 詩織が言ってた動画も見れたし、沙紀と他愛のないやりとりもできた。宿題だって頑張って済ませた。


 何一つ支障はなかったのだ。なかったのだけれど、光に対するモヤモヤが消えない。

 いつまでも俊樹の充電器を借りる訳にもいかないし、母からは今日買って帰っていいよと言われている。


 昨日も今日も光のせいで手間が増えるし時間もとられる。

 何より本人に悪気がなくて、それで良しとされているのが結花には腹ただしい。


 2歳児にイライラしてもしょうがないとわかっているのに。

 昨日「ごめんねーしようねー」と母に言われた光は「めんねー」と頭を下げた。そしてまた「わぁ、ちゃんとごめんねできたね」と褒められていた。言われた本人はえへへ、と笑った。


 罪悪感なんて感じてないんだろうな。


 それでまた今朝も「ねーね!」とにこにこして寄ってくるのだ。こちらが睨んでもびくともしない。


 最高に可愛いのに最高に憎たらしい。


 あーあ、高校卒業したら、一人暮らしでもしようかな。新しい家の部屋、ちょっとしか住んでなくて、もったいないけど。自由が欲しい。


 各駅停車の便に滑り込む。朝は余裕で座れるのが嬉しい。引っ越してよかったことが、ここに一つ。


「昨日ケータイの充電器壊されたーサイアク」とTwitterでつぶやく。ろくにフォロワーもいないけど「いいね」がつくと認められたようで嬉しい。

 スクロールしたらフォロー中の人達のつぶやきで結花のつぶやきが埋もれた。「おはようございます」「今朝はお弁当作った」「新ドラマたのしみ」「小テストゆううつ」……。

 みんな生きているんだなぁ、と思う。ちょっと元気をもらう。いいことと悪いこと、足してわずかでもいいことが上回る人生ならいいなと思う。


 ホントは、こういう想いも友達に言えたらいいのに、と思う。

 でも結花は言えない。

 弟がいることも、若い父親がいることも友達は知らない。


 言えたらなぁ、言おうかなぁ~と思うたび中学での出来事が思い起こされる。


 今と同じ、梅雨の日だった。


 新しい家に友達を招きたかったが、母のつわりがひどくそれどころではなかった。病院から診断書が出て、早めの産休に入り、一時は入院までしていた。

 ついこの間知り合ったばかりの俊樹と気を使いながら母を支えて、結花はへろへろだった。


 妊婦ってこんなに大変なの?


 最初のうち幸せいっぱいだった母は、何を食べても気持ち悪くなるらしく、白い生気のない顔をしていた。ごはんの炊けるいいにおいがダメだと言って、炊飯器が動いている間は別室にいたりした。自然とパンを買ってきて食べることが多くなった。


「結花ごめんね、受験の大事な時期に。高齢出産になるしリスクあるし、でも授かったからには産もうって決めてたから」

 その決意だけは固い母に、結花は愚痴を言うことができなかった。少しでも母が楽になるように、2人で生きていけるように積み重ねてきた日々が、結花の生活の基盤になっている。


 どんなことがあった日でも、あたたかいごはんを食べる。部屋を綺麗にする。できなくても努力をする。そうして、昨日より今日、今日より明日、ちょっとでもいいことが増えるように。2人でも生きていけるように。


 それは俊樹が現れても変わることはなかった。


 やっとつわりが落ち着き、当時の友達(結花がへろへろなのを心配してくれていた)に「実は家がこんなこんなでー」と言おうと思っていた矢先。

 朝のホームルームに、いつもの担任ではなく学年主任の先生が来て言った。


「えー、内村先生は体調を崩されてしばらく休むことになった。新しい先生が来るまでは基本私がホームルームを受け持つのでそのつもりで」


 教室の空気がざわっ……としたがすぐ落ち着いた。学年主任は裏でヤクザと言われるくらい顔が怖いのだ。連絡事項を一通り言い終えて彼が教室を出てから、あるべき反応が沸き起こる。


「どういうこと?」

「最近ちょっと顔色悪いなとは思ってたけど……」

「病気?大丈夫かな?」


 担任の内村先生は20代後半。カワイイ系の美人で人気がある。結花も心配になった。


「大丈夫かなぁ……」と言って友人の顔を見ると、


「私、理由知ってるよ」

 結花と話すにしてはやや大きめなはっきりした声量で――つまるところ周囲の視線を集めるのが目的で友人はしゃべった。当然、周りは注目する。


「内村先生、妊娠したんだって。昨日職員室で話してるの聞いちゃった」


「……えっ!?」

 内村先生、独身だったはず。ということは。


「できちゃった婚、ってヤツ?」

「婚じゃないだろまだ結婚してないんだから」

「マジかよー!ウッチー可愛いかったのに……」

 ガッカリして騒いでいるのは主に男子で、女子はどちらかというと「妊娠はおめでたいけど順番ってものがあるよね」という意見がちらほら。

「憧れてたのに幻滅しちゃった」

「私は結婚してから妊娠って流れがいいなぁ」

 ざわざわ、ざわざわ。


 結花は友人の顔色をうかがった。そこには「特別なニュースを言っちゃった」という、ドヤ顔があった。その友人は、ふと思い出したように結花を見た。


「そういえば結花、さっき何か言いかけてなかった?」


 しばらく迷ってから、結花はにっこり微笑んだ。

「ううん、なんでもない」


「でもさ、ホント内村先生、みっともないよね。がっかりしちゃった」と友人は笑った。同意しかねるうちにチャイムが鳴り、授業が始まった。


 それから結花は家のことを話す機会を失った。言えばこんな反応をされる、というのを目の当たりにしてしまった。


 できちゃった婚。

 歳の差。

 10代の娘、20代の父親、40代の母親。

 普通じゃない、我が家。


 それまでも母子家庭ということで「可哀想に」「大丈夫?」と言ってくる人はいた。結花の人生は、ずっと普通じゃない家庭の中にある。

 普通の家がよかった。誰からも後ろ指さされない。


「自分の家のことを人に話さない」

 結花が後ろ指さされないための、自分との約束。

 普通の振りをする。

 家族の話になったら、普通の家庭の普通にありそうなことを話す。話題を変える。

 結花はそうやって自分を守ろうとしてきた。


 内村先生はそのまま学校には戻ってこなかった。あの日教室で言われていたことが直接先生に聞こえることはなかった。結花はホッとした。


 ――お昼からは蒸し暑さもとれ、ただの暑さだけが残った。夕立が降る気配もなく、帰宅する皆の顔が明るい気がした。


 今日はまっすぐ帰る、と真衣が言い、いつもの4人組は駅ですぐ解散になった。

 流行ものに敏感で、リーダー格の真衣。

 ぽっちゃりしてて可愛らしい、のんびりしている詩織。

 普段は口数が少なく、読書が好きな沙紀。

 3人とも、いい友達だ。高1の4月から仲良くしている。その中で「普通の家と違う」「可哀想」とレッテルを貼られたくない。


 だから今日も結花は皆が見えなくなるのを確認してから、充電器を買いに寄り道する。


 ――「充電器買いに行くの」「えっどしたの壊れたん?」「えっとね……」いやいやいや、ごまかしきれそうにない。てかめんどい。隠れて買いに行くに限る。


 新しい携帯に目移りして、買い物に予想外の時間がかかってしまった。エスカレーターを下りる。下りきった先の広場から見えるビルの大型液晶画面で、アイドルが携帯プランの宣伝をしていた。次いで、映画の宣伝が流れる。


 普通がいい。普通がいいけど、皆に認められて「成功した」と見なされ、ちやほやされるのはいつだって他と違った才能、経験をした人だ。


 結花のような家庭環境が将来武器になるとは思えない。

 でも普通の人と違うことを、あの画面の中の人達はいつから表に出してきたのだろう。陰口をたたかれたりしたのだろうか。いやエゴサーチという言葉がある昨今、わざわざ陰口を言われてるか検索もするのだろう。


 そんなの見た後で、ああやって素敵な笑顔ができるの?


 結花がぼうっと突っ立っていると、勢いよくぶつかってきた人がいた。バッグが落ち、買ったばかりの充電器とタオルハンカチが路上に出た。

 ぶつかってきた人はもう人混みに消えていた。結花は落ちたものを拾い集め、バッグを肩にかけるとまた地下鉄に向かった。そのとき。


 見覚えのある色彩が視界をかすめた。立ち止まり、後ろ向きに三歩戻ってみる。


「商品入れ替えにつき、お安くしております」コーナーにあったのは、昨日買ったばかりのオムツだった。1パックある。昨日より200円も安い。パッケージのリニューアルとかあったんだろう。


 さて。

 どうしよう。消耗品とはいえ昨日買ったばかりのオムツ。でもたくさん使うと言っていたし。1パックしかないし。1パックなら持ち帰りやすいし…。


 3分後、結花はレジに並んでいた。


 いつものデカエコバッグに入れようとして、家に忘れてきたことに気づく。


 しまった。

 買わなければ、目立つオムツを持って街中を歩くこともなかったのに。買ってしまった。


 はああぁ……。


 なんだかんだで「真面目でいい子の結花ちゃん」だなぁ……。


 オムツを持って早歩き。駅に向かってまっしぐら。

 改札をとっとと出て…


 エラー音が鳴った。

 表示される「残金不足」の文字。

「えっ」


 勢いよく進んでいたので閉じた扉にたたらを踏んだ。後ろに並んでいたおじさんに睨まれた。慌ててその場を離れる。


「うっそぉ」

 ああそうだった、お金もらってチャージしなきゃと思ってたんだ。ドタバタしてすっかり忘れてた……。


 隅に移動して通学用のカバンと肩にかけたバッグを探す。なんかどっか千円くらいなかったっけ。

 がさごそ、がさごそ。


 こんな日に限ってどこにもなかった。ポイントカード入れにはいざというときのため二千円くらいあったはずだけど休みの日使ったリュックに入れてそのままだ。


 結花は考える。

 今18時25分。母は今日遅いので論外。俊樹は家にいる。ただしもう光をお迎えに行って2人で過ごしているはずだ。連絡して迎えに来てもらおうか……悪いなぁ。今から来てもらって、生活リズム崩れるなぁ。


 悪いけど、しょうがないかなぁ。


 結花がケータイを出した時。


「はい」

 差し出された千円札。


「えっ」

 視線のその先には、ショートカットですらっとした小柄な女子高生がいた。同じ制服。


 沙紀だ。


「今度返してくれればいいから」


 ん、と目の前に突き出された千円札。結花は自動的に受け取ってしまった。


「な、なるべく早く返す!」


「じゃまた明日ー」

 沙紀はなんでもなかったかのように後ろ姿でひらひらと手を振って改札を抜けていった。呆然とする結花が残される。


 えっなんでここにいたの?

 いつから見てたの?

 とっくに帰ったと思ってたんだけど、てか。


 結花は傍らのオムツを見る。パッケージのキャラクターと目が合う。


 見られた……。

「えっこれ明日からどんな顔で会えばいいの……」


 呟いた言葉が駅内のアナウンスにかき消される。

 目の前を何人もの人が通り過ぎていく。

 結花はしばらくして立ち上がり、千円札をチャージするべくよろよろと券売機に向かった。





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