第5話 振り回される中で
「見えないものを見ようとしてぇ〜」
母が車の中で歌っている。よく歌う割にいつも音が微妙にズレている。
結花は後部座席に寝転がり、緑の木々の中を走る電線の流れを目で追っている。電柱にぶつかって、電線は増えたり減ったりする。その間から時々陽の光が一瞬のぞく。
――私が一番見えないのは私かもしれない。
どうやったら見えるんだろう。
歌詞を
結花はこの光景を時々夢に見る。
「結花、もうちよっとでおばあちゃんち着くよ」
ミラー越しに見える母の顔。
助手席に座っている、父親。
結花は体を起こして、父親の顔を見ようとするのに、見えない。
結花が3歳のときに亡くなったのだから、小学生のときの思い出には居ないはず。なのにそこにいる。
「結花」
振り返る父。顔が光っている。微笑んでいるかどうかもわからない。
声は学校の先生だったり、そのとき見ていたドラマの俳優の声だったり。
「結花」
徐々に光が強くなり、やがて結花は目を覚ます。
……というのが、いつもの流れだったのに。
まだ母親が話しかけてもこない場面で。
どすん!
「おうふっ!」
お腹に衝撃。なんだなんだ何が起こったんだ、と思ったら光がにこにこと笑っていた。
室内はまだ暗い。何時だ。ていうか2階まで登ってきたのかこの怪獣は……。
「ちょっ、光、おりて」
のっかられていると身動きもとれにくい。こないだ15kg超えたって言ってなかったっけ。体重が増えて周りが喜ぶなんてうらやましい限りだ。この間増えてショックだった1kgを分けてやりたい。
きゃはきゃは言う光をなんとか両手でつかんで下ろす。重い。暗い中で距離感がつかめずパイプ枠に頭が当たってしまった。がつん。
うわぁああー!
部屋中に響き渡る光の声。あわよくばこのまま二度寝しようと思ったけど頭に響いてもう無理だ。
「うるさいなぁもう……何時だっけ」
枕元のケータイをつけると「4:37」の表示。
「よじぃ!?」
早起きすぎるだろなんなんだもう。
泣きわめく光をなだめすかし、手をつないで両親と光の寝室がある1階に降りる。降りた頃には静かになったのでホッとしたが、ドアを開けた絶妙のタイミングで光が「ぱぱぁー」と呟き、俊樹が半目を開けた。
「あれ、光?……ごめん結花ちゃん、2階行ってた?」
光は結花の手を振り払い、がしっとパパにしがみついた。俊樹はよしよしと頭を撫でる。母は奥でぐうぐう寝ている。
階段の明かりに照らされ、ぼさぼさの髪にヒゲがうっすら生えている顔がぼんやり見えた。俊樹はジャニーズのグループにいる3番手くらいの顔立ちでまあ上の下くらいには整っている。最初の頃は無駄にドキドキしていたが3日で慣れた。見慣れるとただのおじさんだ。
「ごめんね、まだ寝るでしょ、おやすみー」
「……おやすみなさい」
ドアを閉める 、自室に戻る。
階段踊り場の窓から見える外は、まだ暗い。
今日は、英語の訳が当たるんだった。
あと、千円返さなきゃ。
ああー沙紀になんて言えばいいんだ……。オムツ、見られたしなぁ。
昨夜母はオムツを喜んだ。
「生活費はこういうところでちまちま節約していかないとねー!グッジョブ結花!あ、でも」
その後に続く言葉を、結花は知っている。
「交際費はケチっちゃダメよ!まわりの友達が買ってたのに自分は買えなかったー、っていうのは後々まで尾を引くからね……そう、私みたいにさ」
フッ、と暗い顔をする。この話は何回も聞いたし、結局友達が買ってて母が買えなかったのは流行していたゲームだったりマンガだったりした。今回みたいにモノを言わず思わせぶりな表情を見せることも多々ある。
最近は母がここぞとばかりに決め顔をするとき俊樹が「晴香さん……かわいそう!!一体何が!?」と口に手を当てたりして大げさに反応しているのがちょっとウザい。
まあとにかく、千円は無事返せそうだ。
二度寝は無理そうだけど、人間横になってるだけでも休めると聞く。とにかく6時まで休むかぁーと布団に入る。
……。
……。
……寝れない。
半身を起こしてケータイを確認。今5時すぎ。
あと1時間。まあ……行けるか。
結花は速乾性のあるTシャツと短パンに履き替えた。
母は5時半ごろ起きるだろう。一応LINEを残して結花は街に出た。
「走ってきます。6時前には戻る」
結花は静かに鍵をかけ、膝や踵を伸ばして軽い準備運動をする。イヤホンを差し込み、リズム重視で音楽を選び、鳴らす。そして駆け出した。
さっきまで真っ暗だったのに、あたりは明るくなりつつあった。日の出が近い。
近所の家に電気がついているところが2軒、3軒。起きてるのは私だけじゃないんだな、ちょっと嬉しくなる。
昨夜また降ったのだろう、路面が濡れている。
確か西の方に向かったら大きな川があったはずだ。川沿いから橋を渡って、向こう岸を走り、また橋を通って戻ってこよう。30分コース。距離感がつかめないので3曲聴いたら時計を見ることにした。
走るのは結花の数少ない趣味だった。ストレス解消法とも言える。
小学生の持久走大会の前、「やだなぁ緊張する」と言っていた結花に母が「練習したらいいんじゃない?」と言ってきたのが始まり。学校から帰ってきてから走っていたが、同級生に「昨日走ってたよね」と言われてから注目を浴びたくないと思い、たまに早起きして走るようにした。
結果、持久走大会は女子168人中11番という好成績だったが、結花はそれより1人で走る心地良さにはまっていた。
自分の足で、自分でリズムを刻んで進む。
歩けば1時間はかかるところを駆け抜けて、縮める。
そして自分で決めた分を走り終えたあとの達成感。
家庭環境も周りの目もクラスでの「大人しい子」という位置づけも関係なく、結花が自分の力を感じられる瞬間。
中学初めは「走ることが好きなら陸上部とかどう?」と母に勧められたが、4月に入って6月で辞めた。
まず毎日走らないといけなかった。それまで気分がのったときだけ、母以外の誰にも言わずに秘めた決意を胸に走るのがカッコイイ、と自分に酔っていた部分もあったんだなと気づいた。
そして家のご飯が美味しくなくなった。陸上部が終わって帰宅すると買い物して作る時間と気力がない。そうすると「料理は苦手だし惣菜はスーパーのプロが作ってるから!私は経済を回す!!」と豪語する母が最寄りのスーパーで2割引きになった惣菜を買ってくる。経済を回すと言いつつ割引商品を狙ってくるのが母らしかった。
まあそれはいいとして、そこのスーパーの惣菜は正直あんまり美味しくなかった。そのとき自分の作った卵焼きと惣菜の卵焼き、同じ卵焼きでも味が違うんだな、と発見があった。家で作ったら自分好みにできるんだ。あのスーパーの惣菜コーナーどうなってるかな。
昔住んでた古いマンションは長く住んでいる住民が多く、近所も皆知り合いだった。
「結花ちゃんちはお父さんいないの?」
「お母さんだけじゃ大変でしょう」
「可哀想に」
小学生の頃はしょっちゅう言われていた。母がいるときは「いやー2人も楽しいですよぉー」と話をそらせてくれたが、1人だと言われっぱなしだ。
結花にとっては母と2人で過ごすのが当たり前なのだから何が可哀想かピンと来なかった。
「お父さんいなくてもさびしくないよ」と言ってみたこともあったけど「健気ねぇ」「お母さんがそう言い聞かせてるのかしら」と言われた。
人は自分の見たいものしか見ないんだな、そう思った。
隣に住んでるおばあちゃんはたまに料理を差し入れてくれた。煮物は美味しかったが、その分母が丁重にお礼を言っている姿を見て胸がきゅっとなった。
前住んでいた街に想いを
中学の、部活動の上下関係にも慣れなかった。そして夏に合宿があるから費用はこうこうでとプリントを渡された時に重い石がずーん、と心にのっかったように感じられて、結花は翌日退部届けを出した。
フォームだけは身について良かったと思う。
犬をつれた高齢男性とすれ違う。上から下までおしゃれな格好をした女性ランナーが結花を追い越していった。
音楽ごしに、はっはっ、と自分の呼吸が聞こえる。
もっと早く走れるけど無理はしない。変なところを痛めたりする。
住宅街が朝の光に染まっていく。眠っていた家々が息を吹き返したように見える。
今日も一日、がんばろう。そう思える。
沙紀にはお礼を言って……聞かれたら、うちのこと話そう。
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