第20話 可哀想な子

 蝉の声が耳に響く。

 結花は何を話したらいいかわからなかった。


 「知らなかった」

 「言ってなかったからね」


 沙紀は意外と涼しい顔だ。重い荷物を降ろしたようにも見える。今日はこのことを話そうと決めていたんだろうか、こんなに話す彼女を初めて見た。

 私も家族のことを話した時はこんな風に安堵したんだろうか、とその時の会話を思い出した。思い出して、気づいた。


 そうか、だから私が家族のこと話した時に亡くなった父親は優しいか聞かれたんだ。沙紀の父親は厳しいのかなと思っていたけど、現実はその斜め上だった。

 優しくても、いつも笑顔であっても結果的に子供の環境を変えてしまう人はいる。


 「お母さんは沙紀のことを想っていたんだね」と言いかけようとして、やめた。沙紀の母が何を考えていたのか結花にはわからない。表面に見える部分と心の中と、違う人だっている。結花の祖母みたいに。

 軽々しく何か言おうとしてはいけない。真衣の顔がよぎる。


 今ならわかる。私は次々と友達に話して、自分の重荷を下ろして、せいせいしてて、気が大きくなって……それで「気持ちわかるよ」って言ってしまったんだ。

 自分が秘密を打ち明けたからって、皆が皆、受け入れてくれるとは限らない。真衣にしてみれば「それが秘密?」レベルだったのかも。

 あのとき、家庭に振り回される結花と、親と勉強に追われる「苦労してる仲間」としてではなく、しっかり真衣個人と向き合うべきだったんだ。


 考えなしに言うのは簡単なのに、言ってはいけない言葉だったと後から気づいても取り返しがつかない。

 人と話すのって、なんて難しいんだろう。


 胸の中がぐしゃぐしゃした。糸がもつれあってほどけない。それでも、沙紀への対応を間違えたくなかった。

 存在を思い出して開けたレモンティーはぬるくなっていた。喉に染み渡る。

 ぷはぁ、とひと息。


 「……だから表札の名前が違ったんだね」

 頭を振り絞って、ようやくそれだけ言えた。

 「北川は父親の名字。沢木姓に変えることも祖父母から勧められたんだけどさ、私ずっと北川で生きてきたし、母さんだって私が物心ついたときから北川で、北川のまま死んじゃった。そこは、そのままでいいのかな、ってずるずる変えないまま来てる。良いのか悪いのかわかんないけど」

 きっと答えは出せないまま、次に名字が変わる時は結婚する時かもね、なんて沙紀は最後つぶやくように言った。


 「そうかぁ。……今は、つらくない?」

 「うん。ていうか、ずっとつらいとは感じなかったんだよね。母は本当に困窮こんきゅうする前に私を逃げさせてくれたし、皮肉なことに、宗教の教えが私の心の支えになってた。ああいうのって、精神的に疲れた人間には染み渡るような欲しい言葉をくれるんだよね。ハマる人はハマる理由がよくわかるよ……お金が絡むとやっぱよくないけど」


 新しくやってきた子供たちが水飲み場に群がっている。わぁわぁ、きゃーきゃー言いながら水風船で遊び始めた。

 無邪気な頃。ああやって遊んでいる時は自分と友達だけの世界だった。


 「私さ、普段ここの公園全然来ないんだ」

 「そうなの?」

 まあ、ここは沙紀の家から少し歩くし、公園で遊ぶって年でもないしなぁ、と思ったけど、沙紀の考えは違うところにあった。


 「今日は両親の話をするためにわざわざ寄ったの。思い出と場所って結びつくからさ、近い場所だったら通った時思い出すじゃない、『ああ、ここ父親の話をしたところだ』って」

 「……」

 「この話をしてからわいわい言いながらお菓子買ったら、そっちの思い出の方が上書きされるかな、と思ったんだ」

 「そう」


 楽しくない思い出を、楽しい思い出で上書き。わかる気もしたし、自分との時間をそんなふうに扱われるのは寂しい気もした。

 その心を読んだかのように沙紀はふぅ、と息を吐いた。


 「でもさ、不思議だね。今、結花に話したこと自体は嫌じゃなかったの。自分でも不思議なくらい」

 「私、そんな上手く受け止められてないと、思うよ」

 「ううん。結花は、私のこと可哀想って口に出さなかった。淡々と受け入れてくれた。親戚は皆可哀想だって言ってくるの。過去が可哀想な子はこれから先もずっと可哀想な人生だって決めつけるの。そのくせ手を差し伸べてくれるわけでもないの」

 

 沙紀が泣いてる気がしたけど、横顔を見るとやっぱり泣いていない。「泣きたかったら泣いていいよ」というどこかの映画のセリフが頭をよぎった。でもここで言うのは違う気がした。


 「私、沙紀の過去について上手く言えないし、ご両親のことをあれこれ言える立場にない。

――でも、沙紀と友達になれてよかったって、思ってるよ」

 

 沙紀は空を見上げて目を閉じた。結花の言葉が爽快感のある目薬みたいに染みたようにも見えた。

 しばらく経って結花を見た瞳は、いつもの沙紀より落ち着いていた。澄んだ瞳がまっすぐ結花を見る。


 「ありがとう」

 沙紀ははにかんだ。

 「ううん、こっちこそ」

 「そろそろ行こっか」

 

 結花がレモンティーの残りを飲み干す間に、沙紀はつぶれた空き缶をゴミ箱に入れた。


 沙紀と、前より絆が深まった気がする。

 これでよかったんだと、思った。

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