第19話 つぶれた空き缶

 細い筋を通り抜けた先に公園があった。

沙紀はどうやらここに寄りたかったらしい。

 入口に自販機があった。どうしようかと迷ったけど沙紀がスポーツドリンクを買ったので続いてレモンティーのボタンを押した。


 ミンミンミンミン。

 ジーーー。

 公園は広く、蝉の音がひっきりなしに聞こえてくる。その音に負けじと、子供たちが遊具で遊んでいた。汗びっしょりだ。様子を見ながら話し込む親達でベンチはあらかた埋まっていて、それでも奇跡的に木陰のベンチが空いていたので2人で座る。


 「話しておきたいことがあるんだ。家族のこと」

 ふぅ、と一息つくあいだに沙紀が言った。


 「私、両親はほぼ死んでるんだよね」

 瞬間、公園の夏の喧騒がぼやけた。沙紀の言葉がやけにはっきりと耳に残り、頭の中を巡る。

 「そうなんだ」というのがやっとだった。


 沙紀はぽつりぽつりと、自分の家族のことを話し出した。


 今住んでいる沢木の家は母方の実家で、小学校卒業前に引っ越してきたこと。それも逃げるように沙紀だけが祖父母の家に身を寄せる形になった。父親は穏やかな人だったがリストラにあってからおかしくなった。ギャンブルで借金を作り、返済のために母親が仕事に出るようになった。体の弱い人だったので、休みがちであまり収入はよくなかった。父親はしばらくいなくなり、沙紀が小5の秋、新しい職を見つけてきた、と笑顔で戻ってきた。

 宗教の事務局の仕事だった。


 そこから沙紀の生活は一変し、まず家が変わった。宗教施設近くのアパートに引っ越した。両親は共に事務局での仕事をやったが、メインは毎日の宗教の勧誘だった。沙紀も連れていかれることもあった。父はどんどんのめり込んで行った。

 神の教えにはこうある、あの言葉が素晴らしい、我々も恩恵にあずかっているからこうやって過ごせているんだと声を弾ませて話していた。

 

 沙紀は神の教えを話していたときの父の顔がろくに思い出せない。父の顔越しに破れた網戸の穴を見ていた覚えはある。入居したときからあったふすまのシミ、天井の木目の恐ろしい顔、そこを歩く小さい蜘蛛。部屋の隅の埃っぽいにおい。そんなことばかりがあの数年間の記憶に色濃く残っている。


 アパートには同じ宗教に入っている家族ばかりで、そこで同じ年頃の子供たちと遊ぶのだけが沙紀の楽しみだった。学校の友達は、沙紀がたまたま母と勧誘に出た時に出くわしたときから避けられるようになった。


 「悲しかったけど、どうすることもできなくて。アパートの友達と遊んで、家族でごはんを食べるのが楽しみだったな」


 父の両親は鬼籍に入っていて、母方の祖父母とはだんだん疎遠になっていった。母は連絡を取ろうとしたが、父は一度祖父母を宗教に誘って断られて以降、がんとして寄りつこうとしなかった。


 「父親はさ、家族を支えなきゃって必死だったんだろうね。環境ががらりと変わったのは父親のせいなんだけど、私にも母にも優しかったし、小さかったからこれが当たり前なんだろうなって思ってた。特に疑問を持たずに過ごしてたけど、母親はこれじゃいけないって思ってたみたい」


 母はどんどん痩せていった。布団で寝ていることが多くなった。ところが目だけは徐々に力強くなり、ある日「今日は学校を休んで、荷物をまとめなさい」と言われて、びっくりしながらも従った。中学に上がる前の春休みで、早咲きの桜が母と歩く道沿いに咲いていた。花見をする楽しそうな人たちの横を、早足で通り過ぎた。


 母はもう長くないのかもしれない。舞い散る桜を見ながらぼんやり思った。


 でもお母さん、死んでも生前の寄付が多ければ次は良い身分で転生できるんでしょ?集会でもそう言ってるし教えの冊子にも書いてあるよね。うちは寄付もしてるし教えを広める尊い活動もしているから大丈夫だよ。


 励ますためにそんなことを言おうと思った。大丈夫だと思えることを、安心できる根拠を言おうと思った。

 なにかが喉にひっかかって、沙紀はうん、とかわかった、とか必要最低限しかしゃべれなかった。


 連れていかれた先は祖父母の家で、入る前に沙紀はぎゅう、と抱きしめられた。


「ごめんね沙紀、お母さん元気なうちにあなたを安全な場所に連れてきたかったの。あなたにしてあげられることはこれくらい。ごめんね、大好きよ」


 そのとき、沙紀の心の奥の柔らかい部分が氷になった。母の言葉は愛情だかなんだかわからない。大好きと言っているのに離れると言う。それは、自分が捨てられると言うことだろうか?わけがわからない。それでも自分にはどうすることもできない。

 きっと家族3人でごはんを食べることはもうないのだ。その事実だけははっきりわかった。


 祖父は怖い顔をしていた。沙紀は祖父の書斎にいるよう言われた。そうっと居間をのぞくと、祖父母の前で母が泣いていた。さっきまで強い眼差しで桜には目もくれず、どこにそんな体力がと思うくらいの早足で荷物を持って歩いていた母が、泣いていた。


 沙紀の学資保険を解約していたとか、借金があるとか。笑顔でひどいことをする人だけど、どうしようもなくそばに居たい。自分はもう長くないから、沙紀だけはお願いしたいと泣きながら話していた。

 祖母も涙ながらに話を聞き、祖父はずっと怒っていた。何時間も話し合いがある中、沙紀はいつしか寝てしまい、起きたら母はいなくなっていた。布団がかけられていた。


 それから沙紀は祖父母宅で住み始めた。

 夏が来る前に、母が亡くなった知らせが来た。斎場は宗教施設の住所になっていて、祖父は破り捨てた。ゴミ箱に捨てられたそれをそうっと拾って読んだ。流れるような文体の中に寄付を求める一文が入っていた。大人の話し合いがどこでどうなったのか知らないが、母の骨は沢木家の墓に入っている。


 父親とはそれから会っていない。でも万が一に備えていつも防犯ブザーを持ち歩いている。一度、アパートの友達と遊びたくて遠出しようとしたけど場所が分からなくなり、駅で保護され祖母が迎えに来た。おそらく宗教絡みでろくなことにならないからもう行くな、と言われた。




 太陽が照りつけ、蝉がうるさい。

 結花は話を聞きながら、ゴミ箱の横に転がっている空き缶を見ていた。誰かが飲んでいたときにはきっともっと綺麗で、工場出荷出来たてのまっすぐな姿をしていたであろう空き缶。


 どこをどう間違ったのか、ぐしゃりと潰された空き缶は、ゴミ箱の横で、誰かに蹴られるのを静かに待っているようでもあった。

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