第16話 2人でごはん
雨が徐々に強くなる中、傘を両手で握りしめた光は「水たまりを全制覇する!」と強い決意があるらしく深い水たまりに自ら入ってバシャバシャし始め、道端の小石を拾い、手を引こうとすると「やだ!」と座り込んで(ここでズボンがびっちょり濡れて結花は「こらー!」と言った)、立ち上がらせようとすると手を振りほどいて道路に飛び出しそうになり慌てて捕まえて(十分な距離はあったが車に急ブレーキをかけさせてしまった)、暴れる中でも傘は放そうとしないものだから結花の顔にあたり、結花自身も水たまりの跳ね返りと光の対応で傘も満足にさせず、リュックも濡れ、意を決した結花は光の傘を取り上げて持ち、「いーやー!」と叫んでジタバタする光を無理やり抱っこして、ほうほうの
歩けば10分の道が、30分にも、いっそ永遠のようにも感じられた。
ドアを閉めて傘やら光が脱ぎ捨てた雨靴やらを片付けていると、ザー!と一際大きな雨音が聞こえてきた。
とうとう本格的にゲリラ豪雨になったらしい。家までもったのが奇跡だ。
ヘトヘトに疲れた。
ついでにお腹も空いた。
でも光も結花も濡れている。このままでは風邪を引きそうなのでお風呂に入れて(ここでもご機嫌ナナメの光と一悶着あったしお風呂入れも久々で手間取った)、録画していた子供向け番組を見せている間に結花はドライヤーで髪を乾かした。後でリュックの中身も片付けなきゃ。
「つかれたぁ……」
思わず声に出してしまう。ケータイを見ると俊樹が「あと30分くらいで帰れると思う!」と送ってきていたのでホッとした。救世主よ……。
「まんま!まんま!おなかこっぺこぺー!」
キーの高い声が居間に響く。
きれいさっぱりした光は白いおもちみたいなほっぺたをピンクに染めている。いいなぁ、肌がいちばん綺麗なときだ。
「光、おなかぺっこぺこ、だよ」
「こぺこぺー」
「うん、それはそれでかわいいけど…なにかあったかな」
冷蔵庫を開けると今朝の残りらしい卵焼きと昨日食卓に出た野菜炒めがある。全部食べないかもしれないけどと思いつつレンジで温めて出した。
「手を合わせてください、いただきます」「いったっまーす!」
2人で晩ごはん。ほぼ初めてと言っていいかもしれない。
お迎えからずっと、光の行動を気にしている。前に壊されたケータイの充電器のことが頭をよぎる。気が抜けない。
大体2人きりになる機会はあまりない。光がいるときは
ネットで見かけた「ワンオペ育児」というワードが頭をよぎる。まだ迎えに出てから1時間ちょいしか経ってないのにこの疲労感。
これが毎日、しかも1人だと相当キツいだろうな。
ワンオペではないけど、光を朝送っていくのはほとんど俊樹だと聞いていた。お迎えも、母より俊樹の出番が多い。保育園は俊樹の通勤経路途中にあるのだ。大変だろうにあまり愚痴もこぼさない。
毎日毎日これって……うちの母は聖人と結婚したんだろうか。
疲れてお腹が空いていた結花は、いつも好きなものからゆっくり食べる光より先に食べ終わった。
「ふりかけご飯だけじゃなくて野菜も食べなよー」
軽く声をかけたところで、ケータイをレンジ前に放置していたことを思い出す。
詩織からLINEが届いていた。
10分前に「おはよう」と「お疲れ様」のスタンプ。
よかった、あの後無事に帰宅して寝たみたいだ。
結花は疲れた顔のスタンプを送った。すぐさま不思議そうな顔をしたアイドルのスタンプが送られてくる。反応が早いところを見ると、今まさにケータイを打っているらしい。
「なにか疲れることあった?」
「子供の成長が早くてね……いい意味でも悪い意味でも」
「何言ってんのよーそれよりあの後どうなったん?わくわく」
言われて昼間の出来事を思い出す。やっぱり夢じゃなかったんだな、あれ。
「告白された」
「ひゃー!」
おめでとう、のスタンプが連打で送られてくる。
「青春だねぇ甘酸っぱいねぇ松崎きゅんやるじゃん!!カップル誕生だねぇー!!!」
「いや、とりあえず友達からってことで……あん まり話したことないし」
だいぶ盛り上がっている。
「いいじゃん!」
今度はハートのスタンプが爆速で送られてくる。詩織の盛り上がりように、さっきまでの疲れから徐々に告白された事実に意識がフォーカスされていく。松崎君の顔が浮かんだ。
「よかったねぇ松崎くん、やっとだねー!」
ん?引っかかるものを感じて返信しようとした指先が止まる。まさか。
呼出音が鳴る。
まだるっこしいので電話してみたのだ。詩織はすぐ出た。
「おっ電話なんて珍しいじゃん結花!」
「気づいてたの?松崎君が私の事……気になってるって」
「あーあのね、私と沙紀の机から斜め前の結花を見る時、ちょうど間に松崎君が座ってるんだけど、しょっちゅう結花のこと見てるんだよ。あんなん誰だって気づくよ」
そうだったのか。知らなかった。
「めっちゃしゃべりたくて何度も結花に言おう言おうって思ってたんだけど、沙紀に口止めされててさーあースッキリした!進展あったら聞かせてねー!」
「ええー?」
親友に恋バナ?恥ずかしい。
私、そんな立場になったんだ。
「楽しみにしてるよーそれ全部祐樹きゅんと私に置き換えて妄想するから」
「……ちょっとぉ」
「うそうそ!あ、ごはん呼ばれてるわーまたね!」
プツッ、ツーツーツー。
「ホントに嘘かよ」
呟いた自分の声で現実に返った。
しまった光のこと放っておいた。やりとりに夢中でいつの間にかレンジ前のスペースにしゃがみこんでた。
カウンターキッチンの向こうを見ると、光は思いっきりイタズラ……してなかった。牛乳を飲み終わったところで、パン!と手を合わせて「ごちそーさま!」と元気のいい声。ホッとした。
「えらかったねー光」
牛乳は二三滴こぼしてるし野菜は半分残しているけどまあいいや。上出来上出来。
テーブルを拭いて、光が好きなテレビ番組、さっきと違う回を流す。これで少しの間はもつだろう。
「ちょっとトイレ行ってくるね」
「しーし?」
「はい、そうです」
ふふっと笑ってしまう。そんな、出すモノまで言われたくなかったけど相手は2歳児。真面目に聞いているのだ。
明るいオープニングに合わせてキャラクターが踊り出す。さっきケータイいじってるときも何事もなかったんだ、トイレも大丈夫だろう。
甘かった。
「ぎゃーーー!」
悲鳴が居間に響く。光の背中がビクッとした。
トイレから出てきた結花を待っていたのは、寝室の鏡台から母の化粧品を出しまくっている光の姿だった。
椅子のアイボリー色のカバーがラメ入りのオレンジ、ブラウン、ベージュで汚れている。慌てて光が持っているアイシャドウを取り上げる。
「せっかく遊んでいたのに!」と言わんばかりに光が泣き出す。
アイシャドウは、先日「新色買ったのー!」とウキウキで母が見せてきたお気に入りのものだった。
よりにもよって。顔面から血の気が引く。
床に落ちたチークも割れている。結花の手も光の手足もカラフルになっていた。
「こらーーー!だめでしょ!」
もう1回叫び、泣いたままベッドにダイブしようとする光を止める。泣きたいのはこっちの方だ。
それから。
全てをなんとか片付けた結花はうっすら汗をかいていた。せっかくシャワー浴びたのに。
疲れた。はちゃめちゃに疲れた。もう何もする気が起きない。
事の犯人はさっきまで泣いてたくせに棚から絵本を引っ張り出して「ちょーちょ!」とか言ってる。普段なら「ちょうちょだねー黄色いねー」くらい言うけどそんな気も起きない。
「ただいまー」と俊樹の声がして「ぱーぱ!かえりっ!」と光が玄関に走っていく。
やっぱり小さな怪獣だ。くっそう!
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