第36話 三人目
「そんなの、もう、壁だらけよ!」
母の声はやや大きく、結花はその勢いに驚いた。てっきり「壁なんてない」と言われるか、「壁? あってもぶち破って突き進むわよ」といった強気の返事が返ってくると思っていた。
「俊樹さんと結婚したこととか、光のこととか?」
「違う違う、そのもっと前から。学生の時もそうだし、就職の時だって。というか、毎日よ。職場のことでイライラしている姿、あんたも見てるでしょ」
「そうだけど……」
結花は黙った。沙紀や結花、真衣のように特別な環境の子の周りにしか壁がないように思っていた。
――でも特殊ってなんだろう。普通ってなんだろう。
前はある意味特別なように感じていたけど、自分の周りだって何人もそう感じる子はいるし、逆にテンプレのような完璧に普通な人間は見たことがない、と結花は今更ながらに気づいた。
「学校はまだ、同じ年で同じ青春を過ごしてるじゃない。やることだってテストとか部活動とか決まってるし、勉強は厳しいけど未来があるじゃない。もう社会人になったら年齢は違うわ立場は違うわ、気を使ったつもりが地雷踏んでたりするわ、もうさんざんよ。こないだだって部長が――」
「大人になるって、そういうことなの?」
職場の愚痴に移行していた晴香は、そこでぐっ、とつまり、それからふぅ、と息を吐いた。
「嫌なことばかりじゃないけどね。皆壁がある分、協力してプロジェクトやり遂げた時は達成感があるわ。例えばこのメニューだって」
母はメニューを開く。
「お店の人が試行錯誤して、材料費とか見栄えとか、お客さんに喜んでもらえるように、どんなお店のイメージにしたいかもスタッフが考えた結果なのよ」
文化祭の出し物みたいだ、と思ったけれど、母はまるで思考を読んだように続けた。
「でも、ままごとじゃないの。生活かかってるのよ。だから本気でやるの」
凄むようににやりと笑う。
「それは……ちょっと大変そう」
「でしょ? でも、やってみると楽しいのよ」
母が笑う姿に自信、いや誇り、のようなものが見えた。こんな風になるまで、母はたくさんの壁を乗り越え、今も日々戦い、仲間と打ち解け、協力している。昔から尊敬はしていたけれど、そこに至る道の努力が垣間見えた気がした。1日1日を積み重ねてきた結果なのだ。自分にもできるだろうか、と自問すると、「今はまだ」という返事しか見つからないけれど。
あれこれ考えていると母は店員を呼び、サラダとスープを頼み終えた。そのタイミングで、俊樹が電話から戻ってくる。大人だな、と結花は思う。いろんなところにアンテナを張っているみたい。
「お待たせ。だいぶ長引いちゃってごめんね」「いいよ、仕事大丈夫?」と話すうちに、結花たちのパスタも到着した。
結花はカルボナーラ、母は明太子パスタ、俊樹は和風きのこしょうゆ味。
メインのパスタを一口分ずつシェアしてから、一息つく。カルボナーラはベーコンが肉厚で、こしょうがきいていておいしい。明太子パスタは辛いし、和風きのこしょうゆはあっさりして、だしの味がきいている。
味の感想を言いながら食べる時間は不思議な感覚がした。今日は光がいなくて、お子様用の椅子もスプーンもフォークも準備しなくていい。騒いでしまって、周りに申し訳なさそうな顔をしなくてもいい。両親をひとり占めしている。
嬉しいような、でもやっぱり寂しいような。
こんな感覚も、家を出ることになったらきっと感じることはないのだと、結花は思う。
皿を下げてもらったタイミングで、向かいに座った両親が、そろって神妙な顔をしているのに気付いた。この光景は見覚えがある。にわかにドキドキしてくる。
これは、これはまさか。
「結花に相談があります」
口火を切ったのはまたしても母親だった。中学生のあの日を思い出す。デジャヴ、というやつだ。2人家族が4人家族になると告げられたあの日。何もかも準備が決まっていて、振り回されるようになったあの日。また唐突な疎外感。
晴香が再び口を開くまでの数秒、結花は頭をフル回転させた。一方的に知らされるのが少ししゃくだった。四者面談の時だってこんなに頭は使わなかったのに。
そして。
「もしかして、二人目?」と言った結花の声と、
「光のことで」と言い出した晴香の声が重なった。
瞬間、晴香の目が見開いた。すぐに怒りの色に染まる。
「ばかっ!」と張りのある大きな声で、結花は𠮟りつけられた。
シーンとする店内。落ち着いたBGMが急に場違いになる。
「すみません」と俊樹が周りのお客さんにぺこぺこと謝っている。
結花はなぜ怒鳴られたのか意味がわからなかった。
「何言ってんの、あんたが一人目、光は二人目、もし下にできたとしても三人目でしょう!」
さすがにさっきよりは音量を落として、しかし母はまだ怒っている。とりあえず「ごめんなさい」と周囲に聞こえるように謝ると、周りの客の注意がそれていくのがわかった。徐々に店内は騒がしさを取り戻していく。
「もう二度と今みたいなこと言わないで。私の一人目の子供はあんただからね!」
母の目がいつになく真剣で、念押しされたから「はい」と大人しくする。
「ああ、晴香さん、店員さんが困ってるからほら、デザート食べよう?」
気づけば店員が三つのデザート片手に立ち尽くしていた。
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