4-3 狼について記すこと

 高明が死んだ時点で、父が「もう子供を作らない」と宣言したのは事実なのか。だとしたら、どうして心変わりが起きたのか。


 そのあたりも、父の書斎を探ればわかるだろうか。

 健作さんに送ってもらった私は、まずジャージに着替えた。書斎を調べるには、動きやすい格好の方がいい。


「あ、もう帰ってきてたんだ。ていうか、どうしたの?」


 エプロンにバンダナをした由希さんと出くわした。


「親父の部屋を見に行くんです。狼の資料でも持ってないかなって」

「狼の方なの? 清吾君の事件のことじゃなくて?」

「そっちも調べます。日記とかあればいいんですけど」

「私も手伝おうか?」

「親父に怒られますよ」

「それ言ったら竜吾君もでしょ。いいじゃん、ばれたら一緒に怒られようよ」

「子供みたいですね、なんか」

「昔に戻った気持ちで悪さしようってこと」

「いいですね、それ」


 私達は居間と台所を分ける廊下を歩いていく。

 屋敷の西側には、父の書斎と寝室だけがある。

 かつては、その寝室で高明と母と父が三人で眠っていたのだ。

 私と清吾は、母と三人で二階で寝た。一階の寝室は、父だけの空間になった。


 古い家なので、書斎の入り口も襖戸である。セキュリティなどあったものではない。滑らせて開けると、見上げるような本棚と、床に重ねられた書籍が目の前にせり上がった。窓はどこにもない。明かりは隣の寝室から差し込んでくる弱い日光だけで、室内はどんよりと薄暗かった。


 かつて猟で使っていたと思われるナイフや、釣りに使用したらしき丈夫そうな糸なども部屋の隅に置かれていた。


「こ、これは時間かかりそうですね……」

「この部屋は掃除するのお父さんだったからなあ」


 由希さんが恐れず入っていく。


「誠次さん、この部屋にはお父さん以外の人は入れたことないはずだよ。お父さんだって、誠次さんが不在の時には入らないようにって念を押されてたみたいだし」

「重要な物がたくさんあるんでしょうね」


 室内に入った由希さんは、くるりと身を翻して私を見た。


「で、狼について書かれたものを探せばいいんだっけ?」

「他にも日記があれば教えてください」

「了解。じゃ、手分けしてやろうか」


 まず寝室の戸を開け払う。それだけでもだいぶ明るくなった。

 由希さんが床の本を調べているので、私は本棚をチェックする。


 本は郷土史関係と、小説が中心だ。

 書斎には足を踏み入れたことがない。廊下から見たことはあったが、静かな鬼気のようなものを感じて、入るに入れなかったのだ。


 それだけに、この小説の数は意外だった。父が本を読んでいるところを見た記憶はあまりない。読み書きに関係することは、すべてこの書斎で完結していたのだろう。


「純文学だけじゃなくて、ミステリやファンタジーもけっこうありますね」

「乱読家だったみたいだよ。人前では絶対に読まなかったけど」

「由希さんはずっと前から知ってたんですか?」


「私が高校生の時くらいかな。お父さんが具合悪くて、代わりにお茶を運んでいったの。そしたらスタンドの光で熱心に読んでてびっくりしたよ。猟ばっかしてるわけじゃなかったんだって。でも、私に気づいたらすぐ本を閉じちゃった。『読んでていいですよ』って言ったんだけど……えーとなんて言われたんだっけ……そうそう、『人の目があると気が散って進まない』って言われたんだ」


「ひどく神経質でしたからね」

「お風呂上がりは熱気でページがよれよれになる。外から戻ってきたら、手汗が引くまで本を持たない。まあ、とにかく本を汚さないように気をつけてたね」

「そのわりには、血のついた服で外歩いたりするんですよね……」

「自分なりの線引きをしてたみたい。本は気にするけど、格好は気にしない」

「できれば逆であってほしかった……」

「両方気にしてれば完璧だったのにね」

「まったくです」


 引き続き本棚に視線を走らせる。

 国内も海外も、主要なベストセラー作家は押さえられている。文豪の全集もきっちり棚に入っていた。


 私も国語教師だけに、小説はそれなりに読んでいる。教員住宅にもたくさん置いてあるし、図書館でマイナーな作品を適当に選んで読んだりもする。


「竜吾君、本屋に来てるんじゃありませんよ?」


 由希さんの声で我に返った。

 すっかり棚を眺めるのに夢中になっていた。


「す、すみません」

「見たくなるのはわかるけどね。これだけ並んでると」

「由希さんは小説読むんですか?」

「私はほとんど読まないな。体動かしてる方が好きだから」


 由希さんらしい。


「よくこれだけ集めましたよね」

「私は、よく床が持ってるなって思った」

「確かに」


 文豪の全集や、時代別の文学集成など、箱入りの本がとても多い。


 ……日影ひかげ丈吉じょうきち全集か。一作も読んだことないな。


 わりと状態はよさそうだ。引っ張り出して中身を確認する。


「あれ?」


 本体におかしな汚れがついている。

 指で表紙をこすってみる。乾いた土のように思えた。


「他のはどうだろ」


 私は箱入りの本を全部出してみた。

 土汚れのある本が何冊か見つかった。


「竜吾君、発見あった?」

「本に土の汚れがついてるんですけど」

「土? 誠次さん、絶対に手を洗って読む人だと思うけどなあ」

「しかも、何冊かそういうのがあるんですよ」


 由希さんに全集の一冊を渡した。表紙の左下に土の汚れがある。


「これ、今年になってからかなあ。それなら、今までの几帳面さがなくなっててもおかしくないんだけど」

「謎が増えちゃいましたね」


 とりあえず土の謎は保留にしておこう。


 私は本棚から離れ、机の上を調べてみた。

 古い畳部屋だが、デスクは新しめだった。チェアもリクライニング付きの高価そうな物である。


 木彫りの狼を加工する際に使ったのだろう、工具箱があった。ニス用の筆や、折りたたみ式の小型ノコギリ、キリやペンチ、彫刻刀などが入っている。


 スタンドの横には本が何冊か挿してあった。背表紙を見ると、地元の歴史に関する文献らしかった。造りも本というよりは冊子に近い。


「ん、『狼について記すこと』?」


 奇妙なタイトルの冊子を見つけた。抜き取って開いてみる。筆書きで、達者な文字が綴られている。


 父の字だとすぐにわかった。

 父はボールペンやシャーペンを使うのが苦手だったが、筆を使わせると途端に見事な文字を書くのだ。


 冒頭に、正時まさときという人名があった。


 ……正時氏は我が家系をまたたく間に富豪へと押し上げた人物で、言うまでもなく我が先祖である。江戸中期にご活躍された、偉大なる人物である。……


 おかしな言葉遣いだ。

 容赦なく赤ペンを入れてやりたくなったが、とりあえず続きに目をやる。


 ……正時氏は山菜採りを趣味の一つとしていたが、ある日、道に迷ってしまった。山には霧が立ちこめ、どこへ進めばいいやらわからない。


 そんな時、彼の前に一頭の狼が現れた。

 薄茶色の毛をした、たくましい体躯の獣であった。


 狼は正時氏を先導するかのように歩き出した。彼は、山が使わしてくれた救いの手に違いないと、ついていった。

 途中、山の、魔の気配が近づいた。しかし、狼が眼光鋭く睨みをきかせると、魔のものどもはたちまち去っていったという。


 正時氏は懸命に狼の背中を追いかけ、とうとう麓に戻ってきた。

 狼に感謝を捧げようとした正時氏であったが、いつの間にやら狼は姿を消していた。

 以来、正時氏は、あの幻の狼を山の神と崇め、山に入る時には、必ず捧げ物を持参したという。……


「なんじゃこりゃ……」

「何か発見したの?」

「こんな文章が出てきたんですよ。書いたの、親父ですよね」

「どれどれ? ああ、誠次さんの字だねこれは。筆ならすぐわかっちゃう」


 由希さんにも文章を読んでもらった。


「民話っぽいお話だね。学校で民話集めしたのを思い出すなあ」

「親父の創作ですかね、これって」

「どうだろう。でも、正時さんって実在の人物なんでしょ?」

「さあ。家系図とか見たことないので」


『狼について記すこと』には続きのページがある。


 そちらには、父が猟に向かう際の心構えなどが書き込まれている。

 狼の霊に手を合わせてから狩りを行うこと。獲物が捕れたら、必ず狼に感謝を捧げることなどが書かれていた。


「なんか、これを見ると、誠次さんが狼人形を作り続けてた気持ちがわかるような気がするな」

「狼を信仰してるなんてまったく言ってませんでしたけどね」

「わざわざ言うことじゃなかったんだよ、きっと。自分だけが信じていればそれで充分、みたいな」

「そうかもしれませんね」


『狼について記すこと』を戻し、デスクの冊子を一冊ずつ引っ張り出していく。


 一番右端にノートがあった。かなり色あせている。

 読んでみて、気分が重くなった。

 それは、高明が生まれる前の文章だった。


 跡継ぎを求められている。でも一向に生まれる気配はない。このまま家族の期待に応えられず終わるのか。小春の体はどうなっているのだ。それとも自分の体がおかしいのか。あるいは二人の相性が悪いのか。父は怒るように責めてくる。母はねちねちと嫌味を言ってくる。苦しい。子供はいつできる。いつになったら自分の元にやってきてくれる。早くしないと心が壊れてしまう。日守家を守るどころではない。自分の代で家まで壊してしまう。お願いだから生まれてくれ。新しい命よ、宿ってくれ。


 ノートには一切の改行がなかった。どのページも、細かな文字が真っ黒に紙面を埋め尽くしている。


 父の苦悩が痛いほど伝わってきた。

 名家に生まれたこと。跡継ぎを期待される苦しさ。重圧。そうしたものと懸命に戦っていたのだ。


 もうだいぶ古い文章だ。書かれてから三十年くらいは経っているだろう。それでも机のこの位置に置かれている。つまり、父にとってはそれだけ忘れられない時間だったということだ。


 この数年後、待望の第一子、高明が誕生する。

 こんな苦しみのあとだったら、写真に残っているような笑顔を見せられるのも当然だろう。よほど嬉しかったに違いない。


 それが不幸な事故で高明を失い、子供はもう作らないと宣言し、でも私達を作って、しかしまったく育児には関わらない……。


 父の心情はめまぐるしく変化している。

 日守誠次の中で、一体何が起こっていたのだろう?


「うーん、この本全部に当たるのはすごく時間かかりそうだなあ」


 私が考え込んでいると、由希さんが言った。


「日守の歴史、みたいな本もあったよ。自費出版したのかな」


 由希さんが分厚い本を手渡してくれた。

 ざっと目を通すが、目次から狼の記述を探り当てるのは無理そうだ。


「きっと誠次さんはこれを読破したんだよね。その中から抜粋したのが『狼について記すこと』」

「時間が余ってる人間じゃなきゃできないことですね」


 家の歴史を綴った本は全十冊に及ぶ。

 そんなに語るほど色々あったのかと言いたくなるくらいだ。

 全部読むのは時間的に難しいと判断し、書斎を調べるのはそこまでにした。

 私と由希さんは荒らした場所を片づけ、父の部屋を出た。

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