2-4 桃山花乃の事情
けっこう長く話し込んでいたようで、時刻は午前十一時になっていた。
どうしようか考えた末、桃山秋乃を訪ねてみることにした。
財布に、昨日花乃から受け取ったメモが入っている。
県庁通りを南下して、丹波島橋を渡る。下を流れているのは犀川だ。しばらく雨が続いたので、水の青さが深い。
上空は見事な秋晴れだった。空がとてつもなく広い。
こんな日はアクセルを踏めるだけ踏んでみたい気分になる。由希さんの怒った顔がすぐイメージできて、笑ってしまった。
橋の終わりの信号で停車する。
ふと、自動車教習の一幕が蘇ってきた。
路上教習をしている私の隣で、教官が長話を始めたのだ。
やはり路上教習の時だったそうだ。橋の手前の信号で停車していたら、衝撃とともにフロントガラスが割れたのだという。外に出てみると、大きな鯉がボンネットの上で死んでいた。
原因はすぐに判明した。
トンビか何かの鳥が、鯉を鷲掴みにして上空を飛んでいた。運ぶのに飽きたのか疲れたのか、手放した。そして落とした鯉が教習車を直撃したのだ。
教官はその通りに事情を説明したが、空から鯉が降ってきたので車が壊れました――なんて事態はめったに起こらないため、補償の関係で苦労したらしい。
世の中では、そうした信じられないような出来事が起きたりもするのだ。
だから桃山花乃が幽霊を見たというのも、信じられないけれど、事実かもしれないのである。
「おっ、いい感じにつながったな」
つぶやいていると、後ろの車にクラクションを鳴らされた。いつの間にか信号が青になっていた。
馬鹿なことを言っていないで進もう。
道は
ひたすらまっすぐに車を走らせる。
大きな陸橋が見えてきた。交差する手前で左折する。また直進し、目印の信号で左折した。店だらけだった風景が、徐々に住宅街へと切り替わっていく。
青い屋根。
塀にツタが生い茂っている。
塀はボロいけど郵便受けだけ妙に新しい……。
目的の家はすぐに見つかった。
メモの通りの外観をした家だった。郵便受けが銀色に光っている。
なるほど、妙に新しいとはうまい表現だ。的確かつユーモアがある。私の生徒なら二重丸をつけてあげるところだ。少年少女の文章をすぐ採点してしまうのは国語教師のサガである。
片山家と違って門扉はない。庭に駐車スペースがなさそうだったので、近くの大型スーパーに車を止めた。
駐車したついでに、見舞いの品をスーパーで探す。高めのフルーツゼリーを買った。
三分ほど歩き、〈桃山〉と表札の出た家の前に立つ。
古めのインターホンを鳴らしてみる。
反応なし。
秋乃は病気で寝たきりだと、花乃が言っていた。すると、自力では起き上がれないだろうか。待っていても返事はしてくれないだろうし、向こうは返事ができずに焦ってしまうのではないか。お互いにとってよくないことである。
呼びかければ、向こうの返事が聞こえそうだ。
息を吸った瞬間、
「誰ですか?」
背後から呼びかけられた。
振り返ると、学生服を着た桃山花乃が立っていた……のだが、なぜか制服がびしょ濡れになっていた。髪もいくらか乱れている。
制服はピンクのブラウスに黒のスカート。リボンは深紅だ。すぐ、該当する高校名が浮かんできた。
「あ、昨日の……」
「どうも、日守竜吾です」
「もうお見舞いに来てくれたんですか?」
「うん、心配だからさ」
さっきから心にもないことを言ってばかりだな、と思う。
花乃は私の横で鍵を開けると、戸をスライドさせた。
「どうぞ。汚いですけど」
「おじゃまします。っていうか、その制服……」
聞くまでもなく想像はついている。平日のこの時間に帰ってくるとなれば、もう確定と言っていい。
「いいんです。慣れてるので」
「先生は何もしてくれないのか?」
「そうですよ。相手が多すぎるので」
花乃はさっさと上がっていった。
驚くほどサバサバした態度だ。ずっと苛烈ないじめに晒されてきたに違いない。こういう相手に対しては、無理に「君の力になりたい」と迫ってはいけない。話してすっきりできる人間もいるが、話を聞かれるのが嫌な人間も一定数いるのだ。
私も靴を脱ぎ、花乃の後を追いかけた。
廊下の右手、最初の部屋に入る。
座敷にベッドが置かれていた。真っ白な布団で眠っているのが、彼女の母、桃山秋乃だろう。
目が少し開いているが、瞳はとても虚ろだ。唇がひび割れて、頬もパサパサなのが一目でわかる。私の父ほどではないにしても、かなり深刻なようだった。
「お母さま、誠次さんの息子さんが来ました」
……お母さま、か。
桃山家が新興宗教を主導していた事実が、その呼称だけで感じられる。過敏すぎるだろうか。
秋乃がゆっくり目を開いていった。
「……ああ、誠次さんの……」
声はガラガラだ。
「日守竜吾と言います。お体の方は大丈夫なんですか」
「ええ、最近は、落ち着いております」
「そうですか。なんでも、父がお世話になったとか……」
「なにを、言うんです。こちらこそ、とても、お世話になりました……」
「一体、どういう関係だったんですか? ぼくは桃山という名字を父の口から聞いた覚えがないんです」
「夫が、誠次さんとハンター仲間だったのです。それで日守さんのお屋敷には、時々遊びに行っておりました……。夫は、ご馳走をいただいたり、狩猟の知識を教えてもらったりしていました。夫は夫で、竹細工や、彫刻の技術を誠次さんに教えたりもして……」
彫刻の技術は桃山家から伝授されたものだったのか。
父は元々の器用さに教わった技術を上乗せし、狼まで彫れるようになった。
「誠次さんのご様子は、いかがですか……」
「あまり、先は長くないようです」
「そう、ですか……」
秋乃は目を閉じた。目尻に雫ができて、流れ落ちた。
この反応はなんだろう。
友人と言うには過剰なリアクションではないだろうか。
「わたし、着替えてきます」
花乃がぶっきらぼうに言い、部屋を出ていった。かかとを叩きつけるような歩き方で、音がよく響いた。
「……ごめんなさい。あの子、学校でいじめに遭っている、みたいで……」
「そのようですね。ぼくも中学時代に経験しているので、すぐにわかりました」
秋乃の目が大きくなる。
「竜吾さんも、ですか?」
「ええ。父の変な行動や言動は、思った以上に有名になってたんです。そのせいでキチガイの息子とか言われましてね」
「そんな……。誠次さんは、そんな人じゃありません」
「でも、実際そんな風になっちゃったんです。ぼくもそれは実感していたので、強く反論はできませんでした。ぼくの弟の事件も、いじめに関係していたとは思いますが」
「誘拐、されたのでしたね……」
秋乃の声が震えたように感じた。
「ぼくのことはいいんです。花乃さんがいじめに遭ってるって話ですよ。学校側は動いてくれないんですか?」
「よく、わからないのですが……学校の近くに、空き家があるらしいんです。そこでやられているみたいで……」
「校外ですか。それだと学校も動きづらいですね。でも、こんな時間に何人も空席だったら先生も気づくでしょうに」
「駄目なんです……。相手の方が多いから、先生も見て見ぬふりだそうで……」
大勢を止めるよりは、一人に犠牲になってもらった方が楽。
よくある考え方だ。結果、生徒が自殺すれば苦労するのは自分達なのに。
「わたしの話なんてどうだっていいじゃないですか」
不意に声がした。
部屋の入り口に花乃が立っていた。黒いロングスカートにグレーの長袖シャツという格好になっている。
「お母さまのお見舞いに来たんでしょう? 関係ない話はよくないと思います」
「花乃……口を慎みなさい……」
「いやです。自分のいないところで同情されるのは不愉快です。そういうの、ほんとに気持ち悪い」
「花乃っ!」
秋乃が怒鳴り、そして激しく咳き込んだ。息が切れ、たちまち肩で呼吸し始める。どうすればいいかわからず、私は棒立ちしているしかなかった。
「秋乃さん、お見舞いに来ておいてなんですが、少々花乃さんとお話しさせてもらってもよろしいですか?」
「ええ……お願いします……」
花乃は部屋の入り口から動いていない。私が近づくと、怯えたような顔になった。
「なんですか……。親にそんな口きくなってお説教でもするつもりですか」
「そうじゃないよ。ちょっと雑談しよう」
「話すことなんてありません」
「あるよ。昨日、君はぼくの家で幽霊を見たじゃないか」
「ゆ……」
それ以上は言葉が出てこなかったらしい。花乃はしばし固まっていた。
「……こっちに来てください」
硬直は数秒で解けた。
場所を変え、廊下の奥にある和室へ通された。
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