1-2 木彫りの狼と、足音

 車から降りて、玄関の向こうに視線をやる。

 一本の樹がどっしりとそびえていた。複雑に枝分かれして、葉を赤く染め始めている。


大紅葉おおもみじ、懐かしいでしょ」

「結局切らないままなんですね」

「誠次さんが切っちゃ駄目だってきつく言うから」


 大紅葉は、私が生まれた時には、すでにこの大きさで立っていた。

 太い枝が多く、秋には山ほど葉を振らせる。大きくなりすぎたので、切ってしまおうという話も何度か出たらしいが、今のところ手を出した人間はいない。

 子供の頃、よじ登ろうとしては失敗してを繰り返した。ちょっとした先端にこすらせて手を切ったこともある。


「あのさ、竜吾君」

「はい、なんですか?」

「これから上がってもらうわけだけど……」


 彼女はかなりためらった様子で、

「あんまり、驚かないでね」

 そんなことを言った。


「驚くって、そんなに色々と変わってるんですか?」

「まあ、見てもらうのが早いんだけど……」


 どうも曖昧な感じだ。

 私はキャリーケースを後回しにして、戸をスライドさせた。


 空気がひんやりしていた。

 玄関には靴箱と傘立て、いくらかの靴が出されているだけだ。

 ふと、靴箱の上に目が行った。妙な物が並べて置かれている。


 ……人形?


 そうとしか表現できない。

 木を削って作った物のようだ。

 四つの足、尻尾がある。これは犬か?


「狼なんだって」

「ああ、狼……」


 足が短いせいか犬にも思えるが、非常に精巧な出来だった。

 毛並みや耳、口の中まで、異常とも思えるこだわりが込められている。木の本来の色の上にニスが塗られているようだった。

 この人形が靴箱の上に三つ、置かれている。すべて玄関の戸を向いていた。

 由希さんに向き直ろうと振り返ると、上にも人形が置いてあるのに気づいた。

 玄関扉のすぐ上、板が取りつけられている。そこには二つ置いてあった。こちらに尻尾を向ける形だ。外を向いている。


「これ……親父が作ったやつですよね?」

「うん。全部そう」

「わざわざ五つも?」


 由希さんは首を横に振った。


「家中に置かれてるんだ」

「……なんのために?」

「答えてくれない。暇さえあればずっと作ってた。山から木を切ってきて、書斎に閉じこもってひたすら削り続けてたんだよ」

「何やってんだ、あの親父……」


 さすがに呆れた。

 日守家はのし上がっていく過程であちこちに土地を貸してきたので、父はさほど働かなくても生活できるだけの余裕があった。


 暇すぎてやることがなかったのだろうか。

 こんな人形を量産するほど、日守誠次せいじは退屈していたのだろうか。


 父の手先がとても器用なことは知っていた。それでも、これほど精巧な人形を作るにはかなりの時間を要しただろう。そんな人形をいくつも置いている。何を目的とした行為なのか理解できない。


 私はキャリーケースを引っ張って家に入った。

 玄関を上がってすぐ左に座敷があった。年中こたつを出しっぱなしにしている居間だ。戸を開けると、ここにも狼の人形が並んでいた。壁に沿って綺麗に置かれており、ざっと見ても十はあった。顔はすべて庭を向いている。


 由希さんが私の後ろに立った。


「ね、全部こんな具合」

「ちょっと寒気がするくらい気味悪いですね……」

「二階に上がって。竜吾君の部屋はそのままになってるから」

「ぼくの部屋までこの人形があるんじゃないでしょうね」

「部屋の中にはないから、安心して」

「……中には?」

「屋根には置いてあるってこと」


 私の部屋の窓からは、屋根に出られるようになっているのだ。そこまで狼が制圧しているわけか。


 一体、父はどうしてしまったのだろう。


 元々奇矯な行動が多かったのは確かだ。

 私が子供の頃、鹿の首を持って庭を走り回ったこともある。鼻歌を口ずさみながら猪を解体したことも鮮明に覚えている。しかし、ここまで偏執的な行為をしたことはなかったはずである。


 廊下の奥、階段を上がって二階の自室に入った。

 畳の上に布団が用意されていた。丁寧に三つ折りにされている。

 勉強机も、家を出た時のままになっていた。埃をかぶっている様子はない。由希さんが掃除してくれたのだろう。

 窓から外を覗いてみる。


「本当だ……」


 ここも、同じ間隔で狼が並んでいた。家の面積が広い分、屋根の傾斜はゆるやかだ。おかげで、人形は勝手に転がったりしない。


 滑らかな背中、そして尻尾。

 彼らはやはり、みんな屋敷の外に顔を向けていた。


 ガタッ……と、背後から音がした。


 とっさに振り向く。


 ――誰もいない。


「……由希さん?」


 声をかけたが、返事はない。

 しばらくそのままでいた。


 トッ、トッ、トッ……。


 小さな音がする。人が爪先で歩いているような、そんな音。

 耳に神経を集中していると、音はどんどん遠ざかっていき、やがて聞こえなくなった。

 大きく息を吐いた。


 ――今のは……なんだ?


 幻聴、ではない。かなりはっきりと聞こえた。

 由希さんが作業をしている音にしては、あまりに近すぎた。


「座敷童子じゃあるまいな」


 口に出し、「ははっ」と笑ってみたが、薄気味悪い感じは抜けなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る