1-3 父との再会

 ショルダーバッグを部屋に置き、階下へ戻った。


 居間から廊下を挟んだ向かい側は、三つの座敷がつながっている。

 最初の下座敷しもざしきからなか座敷へ、左に折れて奥座敷となる。奥座敷が仏間である。


 父は、庭に面した中座敷で眠っていた。部屋の中央に布団が敷かれている。西日が差し込んで、部屋はぽかぽかと暖かい。


「誠次さん、竜吾君が帰ってきてくれましたよ」


 父の傍らで、由希さんが話しかけている。私もその隣に座った。

 さっきの異音については、ひとまず忘れることにしよう。この男との対話に意識を向けるべきだ。


 八年ぶりに見る父は、すっかりやつれていた。頬骨が浮き上がり、輪郭がカクカクしている。髪も白くなり、開いたままの口からは、歯が減っているのが見て取れた。


 ――なんて格好だ。


 あまりに無惨な姿だった。

 これが自分の父親かと思うと、胸が重くなった。


「お……、竜吾か……」

「久しぶり、親父」

「……今は、何やってるんだ……」


 声もひどくかすれている。


「静岡で中学校の教師をやってる。小さなところだよ」

「……お前が、先生か」

「意外だろ」

「ふん……」


 父はあまり感心がなさそうだ。

 昔と変わらない反応を見て、私は少しだけ安心した。

 植物人間のような状態になっているのではと覚悟して来たのだ。これだけ話せるなら、すぐにコロッと逝くこともあるまい。


「親父、一ついいか」

「なんだ……」

「狼のことだよ。あれはなんのつもりなんだ」

「…………」


 急に黙り込んだ。


「正直、気味が悪いよ。片づけちゃいけないのか」

「駄目だ……!」


 思わず、私は身を引いた。

 こんな激しい声が出せるとは思わなかったのだ。

 父は叫ぶだけで体力をだいぶ使ったようで、ぜいぜいと苦しそうに喘いだ。呼吸が落ち着くまでに、かなりの時間を要した。


「あれだけは、そのままにして、おいてくれ……」


 やがて、吐き出すようにそれだけ言った。

 それ以上は何もしゃべらなかった。目を閉じて、胸を静かに上下させるだけだった。

 隣の由希さんが、私を見て、首を横に振った。

 こうなったらもう駄目だ、ということだろう。

 思ったより元気なのだ。また時間を置いて話せばいい。


 私は立ち上がった。

 数年ぶりの帰郷なので、仏壇に手を合わせよう。

 父の向こうにある戸を開けて、仏間に入った。

 鐘を三つ叩き、目を閉じて手を合わせる。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏……と口の中で三回唱える。幼い頃からそうしつけられてきたのだ。


 目を開く。

 部屋の右上に、いくつかの遺影が掛けられていた。

 ほとんどが爺さん婆さんの写真だ。白黒でかなり粗い。父の爺さんの代だから、当然と言えば当然だ。


 右へ視線を滑らせていく。

 右から三つ目は、母――小春こはるの遺影だ。伏し目気味で、あまり穏やかとは言えない表情をしている。


 右端二つは、子供の写真だった。


 高明たかあきと、清吾である。


 高明は、兄になるはずだった子供だ。私が生まれるより前に、事故で死んだ。興味本位で焼却炉を覗き込み、頭から落ちてしまったのだそうだ。


 当時――九十年代は、まだゴミ処理のルールがゆるやかだった。そのため、コンクリートブロックを積み上げて作った焼却炉が多くの家にあったのだそうだ。そこに逆さまにはまって煙を吸い、窒息死した。


 ……お父さんがおかしくなったのは、高明が死んでからすぐだったわ……。


 母は死ぬ少し前、私に教えてくれた。

 父が結婚したのは二十五の時だったという。母は二十三歳。

 結ばれたのが早かった割に、なかなか子供には恵まれなかった。次第に、周りからの目も気になるようになったそうだ。


 日守という家は、優秀な後継者を育てることで歴史を作ってきた。それだけに、跡継ぎは絶対に作らなければならない。私の両親にはそれが求められていた。


 結婚から三年、四年と経ち、まず私の祖父に当たる人物が病気で世を去った。祖母はますます、父に後継者を求めた。それでも子供が生まれる気配はなかった。


 父は重圧からか神経に異常が出始め、母もふさぎ込む日が増えたという。


 転機は結婚から六年目だった。

 ついに、子供が誕生したのだ。

 それが日守高明である。


 父の喜びようは相当で、溺愛ぶりも尋常ではなかったそうだ。

 孫の誕生に大喜びした祖母だったが、その年の末に病没した。


 家族が少なくなった分、父と母は、高明に深い愛情を注いだ。ありきたりな比喩を使うなら、海よりも深い愛情を、だ。


 その高明が、わずか五歳であまりに悲惨な最期を遂げてしまった。父の受けた衝撃は、もはや幾千の言葉でも表現できないほどのものだったのだろう。


 その後、私達双子が誕生した。

 ただし扱いはまったく違ったようで、父が面倒を見てくれた覚えは、まったくない。ほとんど母に任せきりだったと記憶している。


 私達の誕生から四年後、誘拐事件によって清吾がいなくなった。

 二年と経たずに、母も病死した。


 ――日守家は呪われている!


 そんな噂は、父だけでなく、私にも深い傷を負わせた。

 なんにせよ、そうした出来事の数々が、私をこの地から遠ざけたのは間違いなかった。


「清吾……」


 ――お前、本当に死んだのか? さらわれた先でちゃんと生きてるんじゃないのか?


 清吾の死は、法的な手続きによって宣告されただけだ。本人の死を確認した人間はいない。


 私は、帰郷したら清吾の事件を調べてみたいと考えていた。

 二十年以上が経過しても、あの日に聞いた「キシッ」という床の軋みが、幻聴として頭に響くことがある。


 たとえ正しい答えにたどり着けなかったとしても、せめて、自分自身が納得できるような説明をつけたい。幼い遺影を見て、その気持ちが強くなった。


「……竜吾君、大丈夫?」


 背後から声をかけられた。

 私がじっと動かなかったせいだろう。


「大丈夫です。色々と思い出しただけなんで」


 すぐに立ち上がり、仏間を出た。

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